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海峡の南 


北海道から神戸へ移住して来た父。

大局の無い小さな金儲けのネタがあれば、ハナを効かせ、飛びついて何でも手を出しては失敗する。
大した商才もないのに儲け話にだけは、飛びついてしまう。
そんなやついるよなぁ。今となっては「いたよなぁ」になるのかな。
とはいえ嫌いじゃない。そういう生き方も。

どうせすっかんぴんで出て来たんだから、すっかんぴんになったところで恐れる何があるのか。
失うものがないところからのスタートなら失うものはない。
失うものを持ってしまうと重荷になる。
ならば常に失うことを怖れずに好き勝手に生きるのも一つの生き方だろう。

まぁ、そんな父を持った息子には災難かもしれないが。

それにしてもおもしろいなぁ、この伊藤たかみという作者の表現は。

思わずそうなのかなぁ、と思えてしまうし現にそうなのかもしれないと思えるところしばしば。

それを主人公の”はとこ”の歩美に語らせる。

子供が母親似なら昔一度は好きになったという遺伝子を引き継いでいるはず。だから母親似なら父親が好きになる要素をたっぷり持っているはず、という理屈。ほーんなるほど、などと思ってしまう。

「不在という名の存在」これはこの本を読まなければわからないかもしれない。
それを聞いて主人公も、んなわけあるか、と思いながらも案外そうかもな、と思えるところはあたりで主人公の意識が読者に伝播するのである。

北海道は時間がゆっくりとながれているのかもしれない。
北海道は距離感がつかめない。
そうなのかもしれないなぁ、と。

”はとこ”どころかこの主人公の男性も父はホームレスになっているのかもしれないと言われた時に、「今なら親父のことが好きになれそうな気がして来た」というあたり相当な変わり者か。

北海道の人が本州を「ナイチ」と呼ぶあたりに「そうだったのか」などと思ってしまうが、この舞台の大半にあたる紋別や遠軽というところから見れば、距離的にはロシアの方がはるかに近い。

かつて父親が渡った北海道から本州へと海峡を渡ることの重み。
本のタイトルである 『海峡の南』 という言葉の意味を何度も想起させてくれる本だった。

海峡の南  伊藤たかみ 著



貧者を喰らう国  中国格差社会からの警告


中国という国を語るに当たっては、その語る人の立場、政治的信条、見てきたもの、地域など、百人の人が語れば百通りの中国があるのではないだろうか。

特に上海をはじめとする沿海側の富裕層の多い地域と地方の農村との間の格差は、日本でいくら格差社会だ、格差社会だと言ったところで到底その比ではないだろう。

本書はタイトルこそ「貧者を喰らう国」といかにもおぞましいが、筆者の記述からは、寧ろ中国の人達への深い愛着、愛情が感じられる。

1990年代の政策が推し進めた売血。
河南省の人は血を抜くという行為を元々は嫌悪していたのだそうだが、売血することで得られる収入を糧にせざるを得ない状況とあまりにひどい衛生状況、注射針の当然ながらの使いまわし、それらの結果、大量のHIV感染者を出した地方。
その地方のことが海外メディアなどから知られそうになるとそこの地方長官は平然と「お前らなんぞが生きているから厄介が起きるんだ。全員死んでしまえ」と平然ののたもうたそうだ。

話題はHIV感染者の話から農村の話へ。
農民だけに課された過酷な税金。

その末に農業に限界を感じ、出稼ぎに出る農民工。
中国では戸籍というものが農民への縛りとして機能していることが良くわかる。
彼らはどこへ出かけて行こうが、都会の市民戸籍とは分離された農村戸籍であり、どこへ行こうが農民工でしかない。

中国の発展はあまりに目まぐるしく、少し前の本でも、根っこは同じでもまず現在の状況とは違うだろうと、ごくごく直近の近代史的に読んで行くことがままあるのだが、この本の出版は2009年9月、まだ1年と経過していない。

6/29(本日)の日本経済新聞のTOP記事はコマツの中国の16子会社の社長をすべて中国人にする、というものであった。
また、最近良く目にする記事では中国の工場での賃上げストが多発している、というもの。

確実に中国の人達の人件費は上がって来ているのだろう。

方や上海万博を取り扱ったドキュメンタリーでは、万博で浮かれる人たちを遠目で見ながら、地方から出稼ぎに来た労働者は、万博へ入場するなどとはこれっぽっちも思わず、わずかな職を求めて来たのだが、やはりダメだと地方へ帰って行く姿が映し出されていた。

上海で急増したと言われる蟻族なる若者達。
この人達も職がない人達なのだが、同じように職の無い農民工と彼らとでは決定的な違いがある。
彼らは大学を出たもののホワイトカラーの職を得られない。
農民工達はそんな職を選ぶことすらしていない。

今年になって発表された中国の所得倍増計画なるもの。
かつての日本の所得倍増計画を思い起こさせるが日本のそれが一億総国民に対するものであったのに対して、中国のそれはどうなのだろう。

やはり恩恵を被るのは特定の人々ということになるのではないのだろうか。



シアター 


借金300万円を抱えて存亡の危機にある劇団 シアターフラッグ。
主宰者の春川巧は兄の司に助けを求める。

借金300万円ったって、一人頭にすりゃたかだか30万だろうが!
いい歳こいた大人が30万用立てられなかった自分を恥じろ!
そう怒鳴って兄は借金の肩代わりに応じる。

無利息だが、ただし2年で返済せよ、2年経って返済できなけりゃ、潔く解散しろ!という前提付き。

この発言を持って鉄血宰相だとか、金の亡者だとかこの兄は劇団員から非難されるわけだが、兄の言うことはしごくごもっとも。

と、言うよりよくお金を出してあげた。
やれるところまでやってみろ、という優しさなのだろう。

プロとアマの境目とは何か。
劇団という世界であれ、やはり自分の食い扶持ぐらいは自ら稼ぎ出す。
まずはプロと呼ばれる最低限はそこだろう。

この兄の司が関与するまではまさしくアマチュアの同好会の延長としての劇団でしかなかったわけだ。

一般社会から見れば、ごくごくあたり前のことのようだが、劇団だとか、芸術だとか漫画家志望だとか、収入なんぞどうでも良く、好きだから続けている、という世界っていうものも結構あるものなんだろう。

この兄は借金を肩代わりしただけでなく、無駄を省き、事実上の経営再建に乗り出すのだが、その手腕たるや素晴らしい。
いやその手腕がどう、という前にいかにそれまで金に対してずさんだったか。
いかに金というものに執着がなかったのか、が浮き彫りになって行く。

借財をためてしまうほどだから、よほどひどい劇団だったのだろうと思いきや、案外、根強いファンが居たりして、本来は充分黒字でやって行ける劇団だったのだ。

いや、なかなかにして面白い本でありますよ。

作者が自ら述べているのだが、この劇団にはそのモデルとなる存在があって、劇団のイロハも知らない作者はそこを取材して三ヶ月で書き上げたのだという。

だから実話に近い部分も結構あるんだろう。

いずれにしても好きなことをしてメシが食えるというのはいいことには違いない。
案外この兄も勤め人やっているよりも劇団経営者の方が向いているのかもしれない。

まだまだ可能性が見えただけで、ハッピーエンドになるのかならないのか、その判断を読者に委ねているあたり、なかなかに巧みな小説である。

シアター! (メディアワークス文庫) 有川 浩 (著)