カテゴリー: 青山七恵

アラオヤマナナエ



かけら


なんと読後感の無い小説なんだろ。

父親と二人で日帰りのさくらんぼ狩りツアーに参加する娘。
彼女は写真を習いに行っており、出されている課題が「かけら」。

父親と二人で出かけるのはおそらくもの心がついてからは初めてなのだろう。
日帰りの旅の中でみつけた父の知らなかった一面を娘は見る。

父親が人に親切にする姿。
人が困っていたら助けたりする姿。

そんな一面をみた娘は父を犬猫を見るような気分になったりする。

なんともその表現には嫌悪感を感じる。

「かけら」とはそんな身近なはずの父であっても知っているのはほんの「かけら」程度のもの、というところに引っかけた、ということだろうか。

この「かけら」と「欅の部屋」と「山猫」の三篇。

「欅の部屋」は結婚を間近にした男が、以前の彼女のことをしきりに思い出す話。

「山猫」は東京に住む新婚夫婦のところへ、と西表島から親戚の女子高生が東京の大学の見学に、と泊り込みで来てその相手をする話。

妻の一人称ではじまったものがいつの間にか夫の一人称にすり変わっていたり、また妻の一人称になったり、というところに違和感を覚えたが、最後の一行で後に成長した後の西表島の彼女が一人称なっているので、ひょっとしたら、全て彼女目線で読み返せば、この本の話の面白さが出て来るのか、とチャレンジしてみたが徒労に終わった。

いずれも読後には微妙な嫌悪感が残るのみだった。

表題の「かけら」なんかは芥川賞受賞作家の看板が無ければ、出版してくれるところなど無かったんじゃないのか?
わざわざ本にして出さなくても、そんなこと、家で日記帳にでも書いておけばいいのに。
というのが素直な感想。

芥川賞の受賞時は取り立てて誉めるところもないが失点が少なかったというだけで、選ばれてしまったような人だ。
それでも芥川賞受賞作家の本をたまに読んでみるのは、受賞作がひどくても、その後におお化けしていることがあるからなのだが、その期待は虚しいのもに終わった。
本屋で買わずに図書館で借りておいて良かった。

ところが驚くことにこの「かけら」という一篇、川端康成文学賞なる賞をを受賞したのだという。

まったくもってわけがわからない。

かけら 青山七恵 著



ひとり日和


芥川賞受賞作なのです。
石原慎太郎氏はじめ芥川賞選考委員の村上龍さんも絶賛。
なんなんですか、それ。
小説家は小説家なりの評価方法っていうのがあるのは良くわかりました。
確かに駅のホームの片隅から描いているその借家の風景だの描き方は見事ですし失点は無いでしょう。
でもいつから芥川賞は減点主義になったのですか?
この小説、失点は無いかもしれませんが、逆に言えばそれまででは無いのでしょうか。
河野多恵子さんの評には唖然!ですね。
よい小説の書き方だとおっしゃる。
あーた方プロから見るよい小説と言うのは失点の無い小説という事なのでしょうか。

正直、この小説を読んで素直に面白いと言った人が居たら驚きですよ。
選者も誰一人このストーリーを面白いとは思わなかったのではないでしょうか。
芥川賞と言うのはこれから育つ人を選考する賞だというのはわかっていますが、そう言う意味ではこの人はもう熟成しているのではないのでしょうか。

なんなんでしょうね。このだらだらとしたストーリー。
主人公に魅力が無い。
手くせも悪い、性格も悪い、こんな女性に感情移入できますか?
主人公に感情移入するどころか、去って行った男達の方に感情移入してしまいますよ。

だいぶ以前にもうそろそろ芥川賞なんてやめてしまえばいいのに、と思った事があります。
正直面白く無い。意味がわからない。それは読んでいるこちらの読力不足なのですか?
でもいくらプロ受けしたところで小説なるもの読者があってのものでしょう。
『限りなく透明に近いブルー』あれはおそらく賛否両論あったのではないでしょうか。
でも私にとっては、あれが芥川賞の最終回だった。
活字メディアが衰退している今日この頃ですから、やめてもらうのは困りますが、河野多恵子さんばりのよい小説の書き方をしている人を選考するぐらいなら、いっその事、賞のタイトルを変えたらいい。
「減点の無い良い小説を書いた人賞」と。
太宰は芥川賞を受賞していない。
おそらくその素行故に。
この青山七恵氏の「ひとり日和」より太宰の作品が劣っていると思う人がいるのでしょうか。
居れば会ってみたい。ウソ。会いたくも話したくも無い。
芥川賞受賞という冠なしにこの「ひとり日和」に出会っていれば別の感想になったかもしれません。
でもそもそも購入してまで読もうとは思っていないか。
という事は出会わなかったでしょう、という事になるのかな。