トワイライト重松清著
そこは千里ニュータウンのはずれにある一画の団地だった。
小さな川を隔てた先は庭付きの一戸建てが並ぶ町並み。
子供達の通う小学校はそんな高級住宅地からの生徒と団地からの生徒が半々ずつ。
少なくとも子供達は学校では違和感も無く仲良くやっていた。
団地っ子の家は小さな畳の部屋が二つとダイニングキッチンだけ。
それを狭っ苦しいと嘆く団地っ子は一人も居ない。
庭付き一戸建ての家は部屋数が多く、庭にその父親がゴルフの練習をするのか、小さなネットがあったりして。
団地っ子はそれを羨むどころか、その隣家との間を隔てる塀に囲まれたなんともいえぬ閉塞感を味わい、団地に帰って来るとほっとした。
団地の庭は広かった。
玄関を開けるともう目の前には小さな公園があった。
毎日学校から帰ると当然の様にそこには団地っ子が数人集まり、当然の様にドッジボールが始まる。
その小公園の横には木でいっぱいの小山があり、そこは缶蹴りの場所。
更にその小山の向こうには小学生が野球をするのに程よい広さのグラウンド。
小公園の反対側にもキャッチボールができる広さの草っぱら。
その全部が団地っ子の庭だった。
なんせ一棟、一棟の間隔が異様にと思えるほどに広いのである。
団地のほとんど全てがそんな間隔で建てられていた。
団地内の草っぱらや小公園は全部団地っ子の庭だったし、団地の周囲もまた庭だった。
団地の周囲は高級住宅地側以外はほとんど田んぼ。
田んぼの向こうは永遠に続くのではないかと思えるほどに続く竹林。
春には竹林でたけのこを取り、田んぼのあぜ道ではつくしを取り、夏には小川には蛍が居た。至る所に池があった。
自転車では箕面の滝の手前から服部緑地まで、団地っ子のの行動半径はは広かったのである。
その周辺の一角だった竹林が造成されて第二団地というものが誕生し、さらに第二団地との間に団地っ子だけの小学校が誕生した。
6年生1クラス、5年生3クラス、4年生6クラス・・・と下級生になるほど人数が多くなるピラミッド型の生徒構成。
ますます子供達が多くなっていったのだった。
自衛隊を辞めて航空会社へ就職した人、新聞社へ勤めたての人。役所を辞めて大学へ職を求めた人。放送局へ就職した人。駅前で屋台の寿司屋を営んでいた人・・・。
団地の大人は皆、未来に夢と希望を持ち、団地の家の狭さを嘆き、いつかは川向こうの高級住宅地の様なところに住むぞ、と意気込んでいた。
重松の描く「たまがわニュータウン」で育った子供達は皆、未来に夢と希望を持つが、この団地では未来に夢と希望を持つのは大人達だった。
団地周辺ではその頃から徐々に田んぼが無くなり、池が無くなり、竹林が無くなって行った。
蛍は早々と消え去った。えんえんと竹林だった頃は誰も気にとめなかった子供のたけのこ取りも、残った竹林には「たけのこ取るな」の立て札が立ち、周囲には金網が張られた。
やがてその残った竹林も無くなり、一帯は新たな新興の高級住宅地となり芸能人などが移り住んで来たり団地からの成功者もどんどん移り住んで行った。
団地っ子は未来に希望を見るよりも自分達の庭がどんどん収縮していくこの先の未来に閉塞感を覚えた。
自分達の遊び場がなくなってしまうのではないか、自分達のふるさとそのものが消えてしまうのではないか、と未来を憂えた。
団塊の世代よりも全共闘世代よりも1世代も2世代も若いこの世代は後にエネルギーの消滅した世代と呼ばれる。
この団地っ子にはドラエモンものび太もジャイアンもすね夫もしずかちゃんも居なかったが、団地っ子はエネルギーの消滅した世代などではなかった。寧ろエネルギーの塊りのように行動的だった。
周辺が消えて行くだけならまだしも自分達の野球場までがフェンスで囲まれた大人も子供も誰も使うことのないテニス場に作り変えられた時にはさすがに怒りが爆発し、団地っ子は陳情団を結成した。市役所へかけあいに行くがおかど違いだと言われ、団地の管理事務所にそのバカな決定者は誰なのか、と訪ねに行くが大人達ですら誰が決定者なのか誰も知らなかった。
団地っ子がエネルギーを消滅して行くのは新興の高級住宅地などに移り住んで行ってからである。行った先は押しなべてかつての川向こうの家がそうだったように家の周囲をブロック塀で囲う、団地っ子からすれば最も閉塞した空間なのだった。
だが、大人は違う。
自衛隊を辞めて航空会社へ就職した人は念願の国際線のパイロットとなり機長となった。
新聞社へ勤めた人は一流紙の敏腕記者となって東京へ移って行った。
大学へ職を求めた人は助教授となり教授となりやがて名誉教授となった。
放送局へ就職した人はアナウンサーとしてテレビで活躍した。
駅前の屋台の寿司屋を営んでいた人は寿司屋のチェーン店の社長となった。
大人は念願通りの成功をおさめ、2DKの団地を未練も無く捨てて行った。
タイムカプセルというのは当時の流行りだったのだろう。
万博でもその行事は行われていたと思う。
時期的にはもうとうに開封された事だろう。
団地っ子の小学校でもタイムカプセルという行事は行われた事だろう。
それがどうなったのか開封されたのか誰も知らないし、おそらく開封もされなかったのではないだろうか。
団地っ子はやがてちりぢりになって行く宿命だった。
親の世代が最初からそう考えて住んでいるのだから仕方がない。
ちりぢりになり、誰がどこへ行ったのか連絡手段も何も無い。せめて半数でも1/3でも残っていれば誰かが動いたかもしれないが、ほとんど全員がちりぢりになっていったのだからどうしようもない。
その団地も数年前にはもう老人がパラパラと住むだけの廃墟に近い状態となり、どの小公園でも遊んでいる子供の姿は見られなかった。その翌年から撤去工事が始まるということだったので今頃はもうあらかた無くなってしまっているのだろう。
その有りようは「たまがわニュータウン」の過疎化と同じである。
「たまがわニュータウン」の小学校は廃校になるということでタイムカプセルを開封しようと同級生が集まる。
集まった中にはかつてのジャイアンが、のび太が、しずかちゃんが集まる。
「たまがわ」の子供達にとって万博は未来への成長のシンボルだった。
団地っ子にとっても万博は開催前までは夢のような存在だった。
やがて万博の開催は即ち竹林の消滅、田んぼの消滅と繋がることに気が付く。
甲子園の何十倍だか何百倍だかと散々その前評判を聞いたわりにはあまりにその狭っくるしさに驚いた。あまりにパビリオンとパビリオンの間隔が狭かったからだろう。
団地っ子達は団地の一棟一棟の広い間隔にあまりに慣れ親しみ過ぎたのである。
どこへ行っても行列ばかり。
それも狭くるしさを感じた要因かもしれない。
「たまがわ」の子供達はやがて成長し、夢見た未来の現実を知る。
天才少年だったのび太のはリストラ目前のサラリーマン。
ジャイアンはしずかちゃんと結婚したが、現在では子供からも愛想をつかされ、ほぼ家庭崩壊状態。
掘り返したタイムカプセルからは亡くなった先生からの手紙が・・。
「あなたたちはいま、幸せですか?」
団地っ子の生き残りとして今、当時の団地っ子彼らに語りかけることができるとしたら、言ってやろう。
「君らの憂えた未来でもちゃんと立派にやって来たぞ!」と。
彼らが必ずこう言うだろう。
「俺達なら必ずそうだろうと思ったよ」と。