壬生義士伝浅田次郎著
拙者、歴史の師匠は司馬遼太郎と決めておる。
学生時代の歴史の教師などからは何も教わった覚えも無い。ましてや受験勉強の歴史なぞ、屁の屁だと思うておる。
その時代背景、その時に生きていた人間の有り様、そんな事をおかまい無しにしてXXが起こったのは西暦何年であるか、誰々はどんな名前の著書を書いたのか、XXXX年に勃発したのは何の乱であるか、そんなどうでもいい事を頭に詰め込んで何になると言うのだ。
XXの乱などと言うネーミングにしたって後世の人間が勝手に付けたものであろうが。
直近の事でさえ、覚えているものはいるまい。
田中角栄が政権をとったのは西暦何年?ロッキード事件で失脚したのは西暦何年?
大平首相誕生は何年?
それどころか、現役の小泉首相が政権をとったのは?
ほれ、誰も答えられるまいに。
拙者、ついこの間の事でさえ覚えておらぬわ。
せいぜい、京都議定書が発効したのは2005年の2月16日じゃ。
日韓ワールドカップが開催されたのは2002年の6月、いや5月じゃったかな。
せいぜいそこまでよ。
いやはや前置きが長くなってしもうた。
「壬生義士伝」、このタイトルからして新撰組を扱ったものである事は明らかである。
新撰組と言えば、まずは司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読まずして何が語れよう。
もちろん、司馬遼よりも前にも海音寺潮五郎の「新撰組血風録」の様な作品もあったが・・。
「壬生義士伝」というからしてこの「新撰組血風録」の様なイメージを抱いて購入して読んだのだ。
浅田次郎のものといえば「鉄道屋」を思い出してしまうのだが、世間一般ではどうもそうでも無いらしい。
んな事よりもこの作品を書いた浅田次郎という男、只者では無い。
この男の才能は計り知れない。
南部藩大阪蔵屋敷へ鳥羽伏見の戦いの戦に負けてよれよれになった吉村貫一郎なる新撰組隊士が現れるところからこの物語は始まる。
藩への帰藩を願い出る吉村に南部藩を取り仕切る大野次郎右衛門が切腹を命じる。
なんでオラが腹切らねばねーんだか、と続いていくあたりで、期待に反しての女々しい男の話であったか、と失望させ、おそらく血風録同様に短編を集めているのだな、と思いきやさにあらず。章が変わる毎に登場人物が変わり、後々の大正時代に吉村寛一郎の事を新撰組の生き残りに取材して語らせて行く。その章が進めば進むうちに吉村寛一郎なる人物が一旦は守銭奴の如く生きたくだらん男に見せかけておいて、徐々にそのベールを剥いで行く。実は剣を取ってはおそらく沖田、斎藤でも吉村を切れないであろうし、文武両道にて藩にいた頃は藩校の助教を勤め、「南部武士は岩を割って花を咲かせ」と教え子達に教える先生でもあった。
吉村寛一郎の魅力はその剣の強さ故では無い。また頭脳明晰と言う訳でも無い。寧ろ愚直なのである。
そこで貫かれる武士道は一般的に知られる武士道とは別個のものである。
殿様に仕える武士道とはほど遠く、愛する女房、子供に捧げる武士道。自分の主は秋田小町の女房なのだ。
いや、ここでそんな事をつらつらとは書くまい。
浅田の天才的な才能によって、この愚直で守銭奴の様に見せかけた男は章をすすめる内に誰しもがこんな素晴らしい男はいない、と言うところまで持ち上げられてしまう。今度はその素晴らしい男に切腹を命じた大野次郎右衛門が今度は悪者なのであるが、そのベールも徐々に剥がされて行き、吉村が帰藩を願い出た時に、「おまんの命と藩の行く末を天秤にかける訳にはいかんのじゃ」と言わしめておきながら、薩長になびかず、官軍に南部藩が弓を引く。その真相が最後の最後に大野が吉村の子供を預ける先の豪農へ書いた手紙の中で明らかになる。
南部一藩の行く末を吉村寛一郎の貫いた武士道と引きかえたのだ。
いやはや、そんな顛末を書いて何になる。
恥ずかしながら拙者、書評なるものを書いた事は過去に一度も無いのじゃ。
浅田は新撰組の有名幹部連中の有り様、個性も見事に独自の世界で書き上げている。
司馬遼太郎の「燃えよ剣」は誰しもが読んでいる事などまるでお見通しの様に、
司馬遼の世界からも徐々に自分の世界へと靡く様に仕上げられている。
土方に関しては、新撰組ものの読者には彼が戦略家で組織作りの天才で、という事はもちろん承知の上なので、そこを強調するよりも寧ろ薬売りをしていた頃の商才に目を付け、吉村に渡す金のやり取りにて商いをする人らしい一面を描き・・・沖田に関しては天才的な剣豪でありながら茶目っ気のある明るい男という事は誰でも知ってるでしょ、と言わんばかりである。寧ろ浅田から読む沖田は人を切る事を喜ぶ殺人鬼にすら思えてしまう。
司馬遼は近藤勇を現実主義の土方の対極で政治好きの愚物として描いた面があるが、
近藤勇に関しては迫力のある威風堂々とした大将である事を人の口伝てにしてちゃんと描いている。
斎藤一に対するスポットの当て方はもう最高である。
坂本龍馬を暗殺したのは実は斎藤一であった・・などは全く読ませてくれる。
この本が映画化されてしまった。
映画化されてまともに見れた試しはかつて無い。
配役を聞いて「うぅ!」とうなってしまった。
中井貴一?違うだろ。もっと背が高くなけりゃ。
しかしなかなかこの映画化、成功しているのである。原作に忠実にいろんな登場人物を配していたら失敗していたであろう。
回想させるのを、大野次郎右衛門の息子の大野千秋と斎藤一だけにしているのも成功している。
吉村寛一郎&斎藤一これを中心にしておくぐらいで丁度良い。
これ以上配してしまうと映画では焦点がぼけてしまうであろうから。
「一天万乗の天皇様に弓引くつもりはござらねども、拙者は義のために戦ばなり申さん」と言って両刀を抜いて駆け出すシーン。
中井貴一ではあったが、このシーンだけでも充分にこの映画は成功している。