涼宮(すずみや)ハルヒの退屈谷川 流


これがライトノベルと言われるカテゴリなのですね。
ライトノベルとは即ち軽く読める小説、という意だとばかり思っていました。
だから新幹線の中で読み終えてしまえるような一冊。古くは松本清張だとか大薮春彦だとか・・ってこれは例が悪いですね。
新幹線って乗り降りする駅にもよりますが、東京-大阪以上の距離なら眠るかアルコールを入れるかをしない限りは、かなりの本が、いえ大方はその範疇に入ってしまいます。

では、ローカル電車で京都-大阪間ならどうだ。赤川次郎だとか・・ってこれも無理がありますね。
そもそも読む時間の問題じゃないんでしょう。
大江健三郎だって開高健だって短いものはほんの短時間で読めてしまいますし・・。

だからと言って短時間で読めたその本を振り返らないかと言えばそうではないのですね。他の作品も読んでみてあらためて、短時間で読んでしまったその本を再読したりする。

じゃぁ、ライトノベルとは何か。要は簡単にお気楽に読めてしまって読んだ後に残るものがないもの?

「ライトノベルとは挿絵にアニメのイラストを使用している本の事だよ」と教えてくれた友人がいるが、果たしてそうなのでしょうか。
アニメ調のイラストが入っていても重たい作品は重たいでしょう。
明治・大正時代の文学にアニメのイラストが入っただけでライトノベル?
ツルゲーネフにアニメのイラストが入ればそれはライトノベル?
ドストエフスキーの本にアニメのイラストが入ればそれでライトノベル?
ライトノベルの「罪と罰」。うーんそれはそれで興味あったりして。

などと「ライトノベル」の定義を云々するのが目的ではなかったはずですね。
ジャンルやカテゴリ分けなど、本屋さんの棚じゃないんだからどうでもいいっちゃどうでもいいんですけどね。

中学生の友人が「ライトノベルならこれが傑作だよ。でも小説としてなら微妙だけれどね」と意味不明のお勧めしてもらったのがこの涼宮ハルヒシリーズ。

そういえば、その中学生の読む本、ことごとくにアニメ調のイラストが有った様な気がする。

「涼宮ハルヒの退屈」まったくの荒唐無稽な作品で、まるでアニメそのもの。アニメがたまたま活字になっている、という印象。
それもそのはずでした。
後になって知った事ですが、元々はアニメだったらしいですから。

しかもシリーズものですよ「涼宮ハルヒの憂鬱」からはじまって「溜息」三作目のこの「退屈」、「消失」、「暴走」、「動揺」、「陰謀」・・・と続いて行く。

登場人物達が所属するのは「SOS団」という学校からはクラブとしても認められなかった変な集まり。部活とは呼べないのでサークル活動の様なもの?

主人公以外には超能力者が居たり、未来人が居たり・・でその団長が涼宮ハルヒ。
荒唐無稽というのはその「SOS団」は団長である涼宮ハルヒを退屈させないために、何か活動を考えなければならない。
何故、涼宮ハルヒが退屈してはいけないか。退屈してしまうとハルヒの精神状態が不安定になり、閉鎖空間という異常な空間が広がるからだそうです。

そんなこんなでいきなり野球大会に出場しようという突飛な発想にも皆うなづいてついて行く。相手は社会人野球でも通用しそうな本格的なチームを相手に閉鎖空間を拡げないために、超能力を使って無理矢理11連続ホームランなどをしてでも勝ってしまう。

もうそのあたりまで読めばちょっと大人の人はもうついてこれなくなるか、アホらしくなるか、本を投げ出してしまうはず。
でもそんな事でめげているようではせっかく本を紹介してくれた中学生の友人に申し訳がない、というもの。

7月7日の七夕には25年先と16年先の願い事をしなければならない。
お願いする相手は牽牛星(アルタイル)と織女星(ベガ)。それぞれの星は25光年と16光年の彼方にあるので、1年先のお願いをしても意味が無い、という事らしいのです。ね。さすがマンガの世界。
うーん!発想が違う。
と妙に感心してしまうのです。

そう言えば例の少年君の読んでいる小説では女の子は大抵、自分の事を「僕」とか「俺」という一人称を使う。これも最近の傾向なのでしょうね。
男女雇用均等法以来、職業でも男女を区別する呼称がなくなりました。

一人称も区別が無くなって来たって決しておかしくはない。

その少年は自分の事を「僕」とか「俺」って言っていたよな。
はたして彼は男だったのでしょうか。

こういう世界に僕も若干ハマりつつあるわけで・・。
だから僕も実は男では無く女なのであります。

なんてオチじゃ誰も満足してくれないだろうな。

涼宮ハルヒの退屈 (角川スニーカー文庫) 谷川 流 (著)

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