乙女の密告 赤染晶子著
乙女なんていう言葉、久しびりに聞いた気がする。
ピアノを習ったら必ず弾かされると言われる「乙女の祈り」以来ではないだろうか。
京都の外国語大学、女子大とは目指す志しが違うと言いながら、教授は学生を「乙女」と言い、実際に男子学生は登場しない。
卒業せずに留年した四回生は○子様と様付きで呼ばれる。
ファーストネームで呼び合うのがルールの大学にあって、留年上級生を呼び捨てにはなかなかしづらいので、ファーストネーム+様で呼ぶのだという。
その大学では毎年ドイツ語のスピーチコンテストに出場することになっており、そのゼミの担当がバッハマン教授という人。
なんとなくではあるが地震学者のゲラー博士を連想してしまった。
このバッハマンという人の個性が強く、いつもアンゲリカ人形という少女が持つような人形を抱えて、話しかけるという変わり者。
話の主題は「アンネの日記」。
ナチス・ドイツ占領下にあって、ナチスのユダヤ人狩りの中、息をひそめて隠れ住む少女の残した日記として世界的なベストセラーのこの本の原文を暗記してスピーチコンテストで暗唱せよとバッハマン教授は学生に命じる。
日本人はアンネ・フランクをロマンチックな悲劇のヒロインとしてしか見ていないが、原題「ヘト アハテルハイス」を読みこめば読み込むほどにユダヤ人のアイデンティティとは?という命題に突き当たる。
ユダヤ人はどこの国の国籍を取得したとしてもどこの国の言葉でで語っていようと、ユダヤ人であるという自己は国籍とは同化しない。
「乙女」という曖昧模糊とした定義の存在と第二次大戦中の「ユダヤ人」という存在を重ねわせて構築された物語で少々戯画的でありながら主題は重たい、という変わった作品である。
この本は2010年上半期の芥川賞受賞作。
文芸春秋の9月号に芥川賞選者達の選評が掲載されるていた。
今回の選者評は面白い。選者方の評価が見事に真っ二つ。真逆なのである。
この本を推挙しなかった側の意見をいくつか。
石原慎太郎氏は毎度のことながら辛口な評で作品を嘆く。
そう、毎度まいど日本文学の衰退を嘆くだけのワンパターンではもはや評とは言えない。
石原氏個人については決して嫌いでは無い。。
政治的な信条やら、自治体の首長としてのご活躍など寧ろ尊敬申し上げるほどである。
ただ、知事職だけでも大概ご多忙だろうに、日本文学の衰退を嘆くために何作も何作も毎度読まされる仕事など健康衛生上もよろしく無かろうし、そんな仕事などご辞退なさって後進に道を譲られたらいかがなのだろうか。
その方が選ばれる方も幸せだろう。
村上龍氏はアンネ・フランクのユダヤ人としてのアイデンティティに関して主人公が独自の解釈を行い、おそらくユダヤ人と思われる教授がそれを肯定してしまう、そういう誤解を生むかもしれない書き方に違和感を感じ、作品そのものにも感情移入出来なかった、と書いておられる。
感情移入が出来ないという意味では全く同感である。そんなものが出来る類の作品ではそもそもないだろう。
高樹のぶ子氏は生死のかかったアンネの世界に比べて、女の園の出来事が趣味的遊戯的なところに違和感を感じられたと述べ、
宮本輝氏は隠れ部屋で息をひそめるアンネの居場所を密告したのはほかならぬアンネ自身だったという運びに憤りを感じておられる。
方や推挙する側は真逆でベタ褒めなのだ。
登場人物を大好きだ、みたいなもはや選評ともいえないことを書いている人も居れば、すごい深読みに驚かされる方も居られる。
「乙女」という非現実的な言葉に「密告」という重い言葉をつなぐことで内容を見事に要約している、という褒め言葉もあった。
本当に要約しているのか?
大先生方はタイトルからして読み方が違うのだなぁ。
主人公の名前が「みか子」という名前に漢字さえもらえないのは、話を導く者を自信の無い影の薄い存在にしたかった計算だろう、などと主人公の命名にまで意味を見いだして評価する、本を書いた人よりそこまで深読み出来る才能に驚いてしまう。
今回の選者評はいつもに比べると長文が多いように見受けられた。
どう読むのかは人それぞれだろうが、選者達にそれだけ長い評を書かせたというだけでも話題作になる値打ちがあるということなのだろう、と勝手に解釈した。
印象に残ったフレーズはこれか。
「ユダヤ人とは、ユダヤ人であるという運命を自ら引き受ける者だ」