カテゴリー: 野村美月

ノムラミヅキ



文学少女と神に臨む作家


『死にたがりの道化』では、太宰の人間失格をモチーフに、『飢え渇く幽霊』では「嵐が丘」をモチーフに・・と原作をモチーフに、それを題材にして且つ原作を掘り下げて、そんな読み方もあったのか、という切り口も入れながら作者ならではの新たな物語を再構築するという試みなのだが、連作が進んで行く内に原作の再構築という姿ではおさまりきれず、原作をモチーフにしながらも平成の世の学生達を役者に揃えての作者の独自の長編物語が頭角を表して行く。

『繋がれた愚者』では武者小路実篤の「友情」を、『穢名の天使』では「オペラ座の怪人」を、『慟哭の巡礼者』では宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をモチーフにする。

この『慟哭の巡礼者』で完結するものと思っていた。
この話のエピローグであとは読者の想像に任せるものだと。
と思いつつも名作をモチーフにした新たな物語づくりというものに期待を寄せてもいた。
『慟哭の巡礼者』で描かれる「銀河鉄道の夜」。カムパネルラとジョバンニの心内をこんな風に読むんだ、と感心しつつも実はその名前すらもこれを読んでいる内にかろうじて思い出した程度で、ストーリーすらほとんど忘れかけていた。
読んでは忘れ、読んでは忘れ、読書とはそんなもの、ぐらいに思っていたのかもしれない。でもこの作者の野村美月という人は何度も何度も読んで読んで、また更に別の切り口で読んでおられるのだろう。

主人公はかつて14歳で井上ミウという女の子の名前で小説を書いてしまい、それが新人賞をとってしまった男の子。
細かいことは書かないが二度と小説など書くまいと思って高校に入って出会うのが、自ら文学少女と名乗る天野遠子という先輩。
遠子先輩はまともな食事は一切味わえない。
食事は本。
本を契っては食べ、これはレモンパイの甘酸っぱい味わい、とかしょっぱい、にがい、などと味合う。
本を味合うっていうのはわからなくもないが、比喩ではなく実際に食べてしまうのはどうなんだ、と思いつつもそこはご愛嬌だ、と流せしてしまう。

主人公の男の子の周辺には常に女の子の登場人物が現れ、男の子は流されるタイプで心の強い女の子が物語をリードして行く、そういう形式の話が近頃の若者向けの物語には多いように思えるのは気のせいだろうか。
西尾維新なんかの本の中でも主人公の周囲には常に複数の強い女の子が居て主人公はモテモテだったりする。

それはさておき、このシリーズでは毎回モチーフの文学作品の登場人物にこの本編の登場人物が置き換えられ、話を展開して行く。
嵐が丘のヒースクリフが登場人物に重なり、オペラ座の怪人のファントムがまた別の登場人物に重なり・・・。

物語にはその登場人物の数だけの読み方があるのだ、と遠子先輩は言う。
そしてそれだけの複数の読み方をこの物語で実践してみせ、且つこの本編の登場人物分の物語を作者は作りあげていく。

だから、井上ミウが書かなくなった理由となる問題がクリアになった『慟哭の巡礼者』だけではまだ終わらなかった。

学園理事長の孫娘で大抵の事は頼めばなんとかなってしまうような存在でありならも脇役の一人であった麻貴先輩を『月花を孕く水妖』として泉鏡花の作品をモチーフに描き、さらに最後は文学少女の主役たる遠子先輩の存在を、その家族をアンドレ・ジッドの「狭き門」をモチーフにした『神に臨む作家』上下巻で完結させる。

この遠子先輩という人、明るく、大きく、時におっちょこちょいで無邪気でお気楽で、しかし強く、とにかく前向きでひたむきで・・・だが切ない。
その切ない文学少女の主役たる遠子先輩の存在を、その家族をアンドレ・ジッドの「狭き門」をモチーフにした『神に臨む作家』上下巻で完結させる。

作者はあとがきで毎巻、改稿、改稿、改稿の連続だったと書いている。
そりゃそうだろうと思う。
この作者の挑んだチャレンジに感服すると共に、本というのは作者と出版社の担当との二人三脚なところもあるんだろうな、と思ったりもするのでした。



文学少女と飢え渇く幽霊


太宰で終わりじゃなかった。
続き物だったんですねぇ。

しかしまぁ、難しいテーマに取り組んだものですねぇ。
この本、「嵐が丘」がモチーフです。
「嵐が丘」という名前は大抵の人は知っているでしょうが、ちゃんと読んだ人も稀なら、読んだとしても内容までちゃんと覚えている人は稀なのではないでしょうか。

私見ですが、太宰とは違ってなかなか感情移入出来る部分がほとんど無いからではないでしょうか。
愛だの憎しみだの復讐だのっていう小説はいくらでもありますが、自分の理解を超えてしまうと、なんだこりゃ、と途中で投げ出した人も多いはず。
実は私もその口です。
あらためて読めば、読みおおせたかもしれませんが・・。

それにしてもこの野村美月という人、チャレンジャーですねぇ。

本って読んでいますと、読み手の傲慢な判断ですけど、あぁこの作者はさぞ楽しみながら書いているんだろうなぁ、と勝手に想像してしまうことも多々あるのですが、この本の場合、作者がうんうんとうなっている場面を想像してしまいました。

こういう何かをモチーフにした作品というもの、かつてもあったでしょう。
小説ではなく神話などをモチーフにしたものは当たり前の如く存在します。

でも、こんなになじみにくい素材をモチーフにして、尚且つそれを掘り下げて、自らの登場人物に再現させながらも、原作の意図を反映させながらも違うストーリーを描ききり、且つミステリーとしても成り立つように全く別の形で再現してしまう。

何か新たな分野の開拓者のようにも思えます。
もちろん私が知らないだけで、そんな作品はあまたあるのかもしれませんが・・。

ただ途中放棄してしまうような作品を再度読んでしまいたくなるほどの書き手となるとどうでしょう。
そんな力がこの作者にはあるのかもしれません。

こうなったら、とことん野村美月さんには書いて欲しいですね。
モチーフにする題材ならヤマほどあるでしょうし。

ただ、イラスト作者には大変失礼なもの言いですが、、出版社の方針とも違うのかもしれませんが、イラスト一切無し、表紙もシックなデザインにしてもらえませんかねぇ。

その方が一応大人としては人に薦めやすいんですよ。



文学少女と死にたがりの道化


「恥の多い生涯を送って来ました。」という出だしで始まる。
ご存知、太宰治の『人間失格』。
その人間失格をそのままモチーフにしてストーリーは進んで行く。
まるで、人間失格をそのままなぞらえるが如くに。

ここでは10年前の人間失格に染まりきった高校生と現時点の人間失格に染まりきった高校生が登場する。

そして人間失格の主人公そのままに道化に依って、朝から晩まで人間をあざむいているはずの自分の実態を見破られた人間を怖れる彼ら。
そう、人間失格の中でお道化で笑いをとっている最中、唯一「ワザワザ」とささやくあの同級生に出会った時の主人公さながらに。

この本、本の装丁から言えば、女子中学生ならまだしも、いい大人がちょっと人前で読むには憚られるような少女ものっぽい表紙なのだが、中を読み進んで行くうちに、あまりに太宰への造詣の深さに驚かされる。

主人公の先輩で自らを文学少女と名乗る文芸部の先輩が、羊よろしく、人の書いた文章を食事代わりに食べて行く、なんていうあたりはご愛嬌だろう。
肉筆のものが味があるなんて言って、書いては食べてしまっていては、この文芸部では一切作品は残っていかない。

そんなことよりもこの天野遠子という先輩文学少女が太宰の生き方共感者に投げつける言葉が素晴らしい。
太宰の作品を全部読み終えるまでは死んではダメ!

走れメロス その一番素晴らしいところはメロスが全裸で走っていたところである、と。なるほろ、原著を読んだ人しか知り得ないことだ。
メロスが全裸だったなんて。

「葉桜と魔笛」を読め! 優しさと希望と光がある!

「雪の夜の話」を読め!「皮膚と心」を読め! みんな優しくて純情で愛らしい!

「ろまん燈籠」を!「女生徒」を!

「おしゃれ童子」のユーモアを!

「如是我聞」で見せる太宰の人間臭さを!

「斜陽」の力強さを読め!

 読め!読め!読め!読め!読め!と。

太宰は「人間失格」だけじゃない!

ハニカミ屋で優しい人たちがいっぱい登場するが強くもなれる人たちだ!

決して破滅型の作家じゃなかったことがよくわかるだろう・・・と。

なんとこの本はまさに太宰の入門本そのものだったんだ。

それにしても太宰という作家、平成のこの世においても何故こんなに人気があるのだろう。

昭和前期と平成という時代の違いは過去の歴史のどの時代の差より大きいに違いない。
それでも時代を超えて、感情移入させる力が太宰の作品にはあるのだろう。

かくいう私は「トカトントン」なんかが好きだったりします。