蕩尽王、パリをゆく ― 薩摩治郎八伝鹿島茂著
大富豪が散財の限りをつくし、現在の貨幣価値にして800億とも言われる金を放蕩で使いつくしてしまう。
明治~昭和のノンフクション。
なんだか途轍もない豪快な逸話の数々を期待してしまう。
タイタニック号を借り切ってみたり、全世界の映画スターと豪遊してみたり、オリンピックの金メダリストを集めて自分だけのオリンピックを開催したり・・・なんて途轍もない逸話が書かれているわけではない。
治郎八氏は芸術を愛する人でありながら、決してコレクターにはならなかった。
コレクターとして収集するのにお金を使うのではなく、寧ろ芸術家のパトロン、良き理解者としての散財をする。
明治から大正という時代、第一次大戦を経て、空前の好景気を甘受した日本人は多かっただろう。
今のお金にして800億というのはとんでもない巨額だが、平成の今でさえ100億という巨額をバクチにつぎ込んでしまう人がいるぐらいだ。
当時の貨幣価値をどういう基準で現在の価値に結びつけたのかは知らないが、その当時の大金持ちなら、もっと桁違いの金遣いをしていた人が居てもおかしくはない。
コレクターとしてもっと金を使った人もいりゃ、本業を維持しながらも豪快に金を使った人もいる。
本の冒頭では、治郎八氏は放蕩で全てを使い切ってしまうところが素晴らしい、とそのあとの展開にかなり期待をさせてくれる。
ところが、寧ろ、豪快な逸話がありながらも極めて記述の仕方は地味なのだ。
それどころか、この筆者はやはり学者なんだなぁ、と思ってしまう。
本人の書いた手記にアラビアのロレンスと会ったことや、コナン・ドイルと会ったこと、フランスの外人部隊に入隊したことなどが、事実だったかどうか、その年号や妥当性の検証やら傍証にかなりの枚数を割いている。
史実探究の推理の過程を楽しむ人にはおもしろいのかもしれないが、初めて薩摩治郎八なる人物にお目にかかった読者がそこまで治郎八オタクになるには、少々関門が高過ぎる。
放蕩で全てを使い切ってしまう、というよりも昭和の戦争で日本人が皆、何もかも失ったのと同様に、金の出どころの実家が傾いてしまった。
日本人が皆一文無しからの出直し。
放蕩で使い切ったというのは、ちょっと意味が違うかもしれない。
それでもまぁ、いずれにしろ、若い頃からとんでもない金を自分のやりたいことのために自由に使いまくったわけだ。
当然、我が人生に悔い無しだろう。