カテゴリー: 重松清

シゲマツキヨシ



赤ヘル1975


往年の広島カープファンには、たまらない一冊だろう。
山本浩二や衣笠などの有名どころは誰しも知っているだろうが、大下だの外木場だの池谷だのという名前は今日メディアに取り上げられることはもちろんないだろうし、人のウワサにのぼることもそうそう無いだろう。
そんな選手の名前が連呼される。

1975年という広島にとって記念すべき1年。
原爆投下から30年。
カープ創設から26年間、下位に低迷していたチームが初めて赤いヘルメットを被って赤ヘル軍団となってセリーグ初優勝を果たした年だ。

直前の3年間は最下位。前年は他の全チームに負け越し。
断トツの最弱チームだったのだ。

とはいえ、この物語、初優勝を飾った広島カープの赤ヘル軍団が主人公なわけではない。

主人公は東京から転校してきた中学生。
彼はもう数えきれないぐらいに転校を繰り返している。
父親が怪しげな商売にはまっては失敗し、借金を抱えては夜逃げ同然で逃げ出して新天地を求めるからで、それぞれの転校先では友達をつくるひまもない。

そんな彼が、広島の中学生と友達になろうとする。
原爆の被害について理解しようとするが、なかなかに話が踏み込めない。
それは自分が「ヨソもん」だからなのか、と自問する。
広島の子は「ヨソもん」に原爆のことを耳学問だけで語られるのを嫌う。
また、地元の広島の子であっても実は30年前のこととなると、やはり耳学問でしかないだが・・・。

友達になった酒屋の子の「ヤス」という少年。口は悪いが友情にあつい。
主人公の父親は、それは誰がどう聞いてもマルチ商法だろう、と思う商売に乗っかって、息子の友人「ヤス」の母親からなけなしの金を引き出させてしまう。
主人公君にはなんとも酷な状況である。
それでも「ヤス」は連れであることをやめようとはしないし、「ヤス」の母親も優しいままなのだ。

1945年の8月6日に投下された原子爆弾。
その後、もはや草木も生えないだろう、と言われた広島の街が30年の間にみるみると復興して行く。

例年8月になると広島には平和運動家なる人たちが集まり、核廃絶を声高に叫ぶ。
平和を愛する人たちは、原爆の被害者たちが生きている間にその話を残そう、絵を描いてもらおう、と呼びかけるのだが、実際に原爆を体験した人たちは極めて寡黙である。

自ら語りたいとも思わないし、描きたいとも思わない。
あまりにも惨い状態だったので、思い出すのが辛くてたまらないのだ。

だからと言って、どんどん復興して行って当時の姿がまるで忘れ去られたかの如くに消え去ってしまうのも、またなんだかくやしい。

この物語、転校して来た中学一年生の男の子と地元広島の少年たちとの友情の話。
戦後30年、復興して来た広島と共に歩んで来た広島カープの存在。
友情と原爆とカープの初優勝、この三つがからみ合って成り立っている。

私はカープファンでも無ければ、今や野球ファンでもないが、この本を読むとカープファンがたまらなく好きになるし、広島という街そのものが大好きになる。
そんな一冊だ。

赤ヘル1975  重松 清 著



エイジ


一時、中学生の犯罪が続いて、報道メディア一勢に今の中学生に何が起こったのかと騒ぎ出した時期がある。
統計的には決して昔よりも増加したわけではないそうなのだが、何故にあれほど騒がれたのか、一部猟奇的な殺人も有り、またメディアに登場するモザイクのかかった中学生などが「人を殺して何が悪いのかがわからない」の様な発言をする様を繰り返し報道したせいもあるのだろう。

この物語、中学2年生が主人公。
その近所で頻繁に発生する通り魔。
通り魔と言っても女性の後ろから忍び寄って警棒で殴りつけるだけ。
「だけ」と言う表現は適当ではない。
後ろから忍び寄って殴りつけるだけでも、もう二度と暗い箇所の一人歩きなどは出来なくなるだろうし。

それでも外傷は軽傷ですむのがほとんどだが、23件目の通り魔の被害者がたまたま妊娠さんだったため、軽傷では済まず流産してしまい、産まれる前の子供を一人としてカウントするなら、初の死者が出たことになる。

その通り魔の犯人がこともあろうに同じ中学校の生徒。それどころか同じ学年、同じクラス。逮捕される前日までは自分の前の席に座っていた男子だった。
マスコミが学校の周辺を囲み、中学生達にインタビューをしようとこころみる。

「今の中学生ってこれまでとどう違うのかな?」
「知らない。そんなこと聞かれたって違う世代の中学生時代なんか知らないもん」
まさにその通りだろう。
マスコミは彼らに質問してどんな答えを引き出したいのだろうか。

受けねらいで「被害者は運が悪かったっすね」事を口走ってしまい、日本中のヒンシュクを浴びた子のような発言が出ないか出ないか、と待ち構えているのだろう。

秀才のタモツ君、なかなかユニークな存在だ。
人類には3種類の人間しか居ない。
昔中学生だった人。
今中学生の人。
これから中学生になる人。
の三種類。
その三種類の中でも断トツに「今中学生の人」の方が少ないのだから、何をしても目立つのがあたり前。
20代の男が通り魔をして、あなたは同じ20代としてどう思うか、などとインタビューしてまわらないだろう、と言うのである。

正確には「この日本には」と言うべきところだろう。
世界には今も昔もこれからも中学校とは無縁な人達がほとんどの国などいくらでもある。
主人公のエイジはじめ、作者は中学生の気持ちが良く描けていると思う。
自分は今中学生ではないのでそう想像するだけだが。

一時、ニュースのコメンテーターなどで重松氏を見かけた時には、作家は文章で勝負して欲しいよな。メディアでしゃべるなんてことをすると途端に値打ちが落ちると思ってしまったものだが、氏がコメンテーターに呼ばれていたのは、この手の中学生の犯罪にからむニュースがあったからなのかもしれない。

エイジや他の中学生と通り魔になってしまった中学生との違いは何だったのか。
通り魔を犯したタカシのことをエイジはほとんど覚えていない。記憶にない。それだけ印象に残らない存在だった。
彼と小学校4年生からずっと同級生だったという友人でさえも小学校時代を通して彼の思い出らしきものを思い出せない。

そういう少年だったから通り魔になったのか。
彼はマウンテンバイクに乗って女性を背後から襲った。

エイジも自転車に乗っていて、周囲の人があまりに無防備なのに驚く。
自分がもし警棒を持っていたら、もしナイフを持っていたら、やってしまっていたかもしれない。
エイジは心の中では何度も人を刺している。
その差はほんの紙一重なのかもしれないし、雲泥の差かもしれない。
それでも結果から言えば雲泥の差しか残らない。

エイジはバスケット部に入部していて新人戦から活躍間違いなしだったのに膝の故障で辞めざるを得なくなる。

エイジの辞めた後にエイジとコンビを組んでいた新キャプテンは部員全員からシカトをされる。

それを助けてあげて、と女子に言われるが、シカトされている側はシカトされている事を認めた時に全てに負けたことになってしまう。
だから彼は助けることをためらう。

そんな感情は中学生の男の子に聞かない限り到底理解出来ないだろう。

この物語の救いは通り魔を犯したタカシなのかもしれない。
その家族も近所の白い目の中、逃げることもなく、引越しもせずに同じ場所に住む。
なんと勇気の要ることだろう。
彼自身、転校することもなく、同じ中学校の同じクラスに帰って来る。
クラスの連中はそれまでと同じように彼と接して行くのだろうか。
被害者の感情はともかく、少なくとも彼は逃げ回る人生より、失敗を繰り返さない人生を選択したのではないだろうか。

エイジ 重松 清 著



ビタミンF


ひとの心にビタミンのようにはたらく小説・・、Family、Father、Friend、Fight、Fragile、Fortune F で始まるそれら言葉を、作品のキーワードとして埋め込んでいった・・・と作者は後記で述べています。

「ゲンコツ」という話。
若い連中と、カラオケへ行っては仮面ライダーの主題歌を歌い、「変身!」「とぅー!」とジャンプしたりするオヤジ。なんともはや・・・「若い頃」といった言葉に抵抗がなくなった、という表現が用いられているが、もはやそんなレベルではないでしょう。
若者達は「痛いオヤジ」と呼んでいるに違いないでしょう。

暗くなった時間にたむろする若者達におびえるオヤジ世代。
幽霊が恐かった子供の頃よりも38年も生きて充分すぎるほどの大人になって、夜道が心細くなる、というこのオヤジ世代。いや世代というよりこの人達というべきではないかと思いますがいかがなのでしょう。

そんなオヤジがちょっとだけ勇気を出してみたというお話。

「はずれくじ」という話。
中学生の息子が同級生のパシリに使われている。
それを心配する父親。
心配する必要などこれっぽっちもなかったのに。

最後の小編「母帰る」。
これはちょっといいですね。
主人公は37歳。
身勝手とも思える母の出奔。
しかしながらその出奔は親としての勤めを全て終えた後の出奔。
娘も息子も結婚して家を出たあとのこと。
まだ子供達が成長期なら「なんと無責任な」と周囲が憤っても無理はないが、その勤めは全て果たした。
老いて残された父は潔いし、そんなことも良く理解している。
なかなかに良く出来た父なのでした。

その他いくつの小編がありますが「母帰る」以外でほぼ共通しているのは、主人公ほぼ同年代の中年男で、中学生か高校生の子供がいる。
子供と母親は意識を共有し、思いを共有するが、父親の自分だけはその共有するものから除外されたポジションにいる。
また、それを知ってショックにおちいる。

それがそんなにショックを受けるほどなのかは人それぞれでしょう。
外で仕事を持つ男ならもっと最悪な家庭状況ならともかくもこんな程度のこと、いちいち気にとめていたら仕事にならないでしょうし。
妻と子供が共有するものを持っているだけでも充分だとも思えますが、それも人それぞれでしょう。
「トワイライト」の登場人物たちもちょうど同じ世代。
回顧的なのはいいんですけれど、まるで「回顧する」即ち「現在の敗北を認める」みたいな印象が残ってしまいます。

家庭に疎外感?みたいなものを感じたとして、それは悩む対象なのでしょうか。
そんな人が居れば、「開き直れよ。男達!」
と言ってやりたいですね。

いつでも出ていってやるさ。
とか。

俺が目障りとかガタガタ言ってんだったらよ、1DKか2DKのアパート借りてやっからさぁ、生活費ぐらい出してやるから、さっさと俺の眼の前から消え去れよ。
さっさと眼の前から消えてくれよ。
と、まぁそこまでは、極端としても心積もりとしてはそれぐらいのことを思ってなければばかばかしくって年もとれないでしょう。

重松さんの作品、さぁて、ビタミンは効いてきましたかでしょうか?

ただ栄養剤とかビタミンってもともと効いた気がするっていう類のものなのでしょう。
効いた気でまぎらわすより、しっかりと自らの立派な開き直りを出してみましょうよ。
お父さんたち。

せっかく一生懸命に働いて来たんだから。

ビタミンF  重松 清 著