空色勾玉荻原規子著
『白鳥異伝』と前後してしまったが、ストーリーとしては別物なので前後しても全く問題は無い。
勾玉がタイトルにあるぐらいなのでここでも勾玉は出て来るが、『白鳥異伝』での勾玉の役割りほどの役割りは持たない。
どちらも日本の神話時代のお話であるが、『空色勾玉』は『白鳥異伝』よりさらに前の時代。
『白鳥異伝』は勾玉を守る一族の遠子と大蛇の剣を持つ小倶那(オグナ)の物語だとすると、『空色勾玉』は闇(くら)の一族の若き巫女の狭也(さや)と稚羽矢(ちはや)の物語。
こちらでは狭也が勾玉の持ち主で、稚羽矢が大蛇の剣の持ち主。
設定は似ている。
少々無鉄砲なところのある狭也と遠子。
似ている様だが、どちらかと言うと遠子の方が気が強く、狭也の方が流されやすい感じがする。
稚羽矢(ちはや)の名前の由来はもしや千早赤阪の千早か、とも思ったが、百人一首にもある「ちはやぶる神代もきかず龍田川・・・・・」のちはやぶる(あらあらしい、たけだけしい)のちはやではないだろうか。
それにしても男神である輝(かぐ)の神が女神である闇(くら)の神を追いかけて黄泉の国に行き、その姿を見て逃げ帰ってしまう。
その子供が「大蛇の剣」を持つとなれば、これぞまさしく。
男神イザナギが女神イザナミを追いかけた、という神話そのものか。
イザナギとイザナミは日本そのものの始祖である。
男神の三人の子供で大蛇の剣の持ち主の御子と言えば、ヤマタノオロチ退治のスサノウノミコト。
稚羽矢とはスサノウノミコトなのか。
輝(かぐ)の御子である三人、照日王と月代王と稚羽矢は不老不死。
中でも稚羽矢はちょっと変わり者なので、大蛇の剣と共に幽閉されている。
照日王と月代王には不死ゆえからなのか、人の命を絶つ事など何とも思わないという、酷薄な性格。
同じ不死でも稚羽矢だけは違って、情がある。
それにしても不思議な物語である。
著者の荻原規子氏は小学時代から古事記を読んでいた、と自ら書いている。
そんな頃からとことん通読した人が現代向けに書くからこそ、この様な神話時代の話が何の違和感も無く読めるのだろうか。
各々の個性も強烈だ。
この世の太陽とも言われる「照日王」。
闇(くら)の一族を滅ぼすためならどんな手段も厭わない。
この世の月とも言われる「月代王」。
照日王とはすぐに仲たがいをしてしまうが目的は同じ。
何歳なのかは知らないが二人とも外見は若く美しい。
不老不死なので食事すら摂らない。
話の途中からカラスの身となり、空からの偵察役をやらされたりする「鳥彦」の存在も面白い。
狭也の良き理解者であり、窮地を救う事も・・・。
まるで子供のまま大きくなった稚羽矢には普通の会話は成り立たない。
自然を愛し、人の死に哀れみを持つところは姉や兄とは全く異なる。
動物に成り代わってしまう、という特異体質の持ち主である。
もちろん、神話の時代の話なので特異体質という言葉は当て嵌まらないか。
不老不死はいつの時代も権力者の最大の夢だったのではないだろうか。
手に入れられる限りの全ての権力を手に入れても、必ずや訪れる老いと死。
古今東西の権力者が不老不死を手に入れるための空しい努力を書いた物語は山ほどあるだろう。
この物語そんな不老不死へのあこがれを断ち切るかの様に、人は死ぬからこそ、恐れを知り、悲しみを知り、優しさを知る、という事を繰り返し人々の口を借りて書いているのではないだろうか。
いずれにしても日本の創世記そのものをファンタジーにしてしまう、という途方もない事をこの作者はやってくれている。