ひそやかな花園角田光代著
なんともナーバスなテーマなのだろう。
幼い頃の夏休みのほんの一時期を、毎年親子連れで数組が集まり、キャンプをして過ごす。
彼らは親戚同士では無い。
親たちが学校の同級生同士というわけでも、クラブサークルの友達同士というわけでもない。
子供たちが大きくなる前にその毎年の集まりは無くなってしまう。
何故、無くなったのか、子供たちには知らされない。
成長していくうちに、もしくは成人してから、それが何の集まりだったのかを全員が知ることになる。
夫側の問題で子供が出来ない家庭に精子バンクによる不妊治療を施すとあるクリニックで出産した人たちとその子供たちの集まりなのだった。
さて、成長した子供にとって自分の遺伝子がどこから来たものかわからない、という事実は重たいか、どうか。
男の子はその事実そのものはすぐに割り切っている
逆にそれで納得、みたいに。
女の子は人それぞれで思いは違うようだ。
それにしても、父親たちのこの割り切れなさ加減はどうなのだろう。
昨今良く報道される若い親の子供への虐待事件は若い夫と同じく若いが、二度目の結婚なのか妻の連れ子が居るようなケースが多いが、彼らのような親になる覚悟も無しに親になってしまったのとはわけが違うだろう。
子供が欲しくて欲しくてたまらず、いろんな不妊治療の末にたどり着いたのが、この治療方法だったのだ。
この小説のクリニックでは遺伝子を選べることになっている。
スポーツが得意な人の遺伝子。
芸術に秀でた人の遺伝子。
一流大学出身者の遺伝子。
・・・などなど。
実際には日本ではそういうドナーの学歴や職業についての個人情報が非開示であるのが原則らしいが、欧米では開示されているケースがあるやに聞く。
そりゃ、もし選べるのなた産まれて来る子供には少しでも恵まれたものを与えたいと思うのが親というものだろうから、少しでも優秀だと思えるならそちらを選ぶのは道理だろう。
だが、成長するに従って、子供の遺伝子に嫉妬してしまう父親というのはどうなんだろう。
我が子として育てている以上、芸術に秀でていたら嫉妬する前にそれをさらに伸ばしてあげようと思うだろうし、スポーツに秀でていたらそれを伸ばしてあげようと思うのではないのか。
それで、父親が耐えられないようなことになるのだとしたら、それは実は夫婦間の問題だったのではないのだろうか。
先天的に与えられるものよりも後天的に与えられるものの方がはるかに大きいようにも思えるが当事者ではないのでなんとも言えない。
知り合いで、元来もの凄い内気で根暗なヤツが学生時代にバイクの交通事故で緊急入院し大量の輸血を行ったことがあったのだいう。
彼はその後、無事退院して現在も社会生活を送っているが、輸血後性格が変わってしまったのだとか。
大勢の前で良く話し、ゲラゲラと大声で笑い、人見知りをしなくなった。
大量輸血というものはそういうことも起こしてしまうものなのだなぁ、と初めて知ったが、考えてみれば血というのもそもそもは親から受け継ぐもの。
他人から受け継いだ血液を循環させるのだからそういうことも起こるのかもしれない。
同じように大量に輸血をした老人がそれまで怒りっぽい性格だったのが、なんだかまるくなった、という話も聞いたことがある。
但しそれには後日談があって、ほんの一時期のものだったのだとか。
やはり永年培ってきた性格というものはそう簡単には変わらないのかもしれない。
いずれにしても他人の血を輸血してもらって仮に性格が変わったからと言って、それをとやかく言う人はいないだろう。
逆にドナーの立場になったらどうか。
残念ながらというべきか幸運にもというべきか、そういう場に出くわしたことがないのだが、おそらく困っている人が居るから、と頼まれれば、献血車で献血を拒まないのと同じで差し出すのが人情というものだろう。
それをアルバイトにしたり、自分の子孫をばらまきたい願望者が居るのではないか、と読ませるのは多くの献血者的な人への冒涜になりはしないだろうか。
と、書けばこの本がネガティブな本のようなイメージを与えてしまうが、実はそうではない。
「いかに生まれるか」ではなく、「いかに生きるか」なのだと。
それまでの経緯はどうであれ、生まれて来て良かった。
生きていて良かった。
少し意味は違うかもしれないが「朝はかならず やってきます」と書かれた柴田トヨさんの詩にも通じるような元気づけられる結びに救いがある。