カテゴリー: 森見登美彦

モイリミトミヒコ



ペンギン・ハイウェイ


僕は大変頭が良く、しかも努力をおこたらずに勉強するのである。
だから、将来はきっとえらい人間になるだろう。

という書きだしで始まる。
なんて嫌なガキなんだろう。
と誰しも思うかもしれないが、とんでも無い。
このボクは嫌なガキどころか尊敬に値するほどの努力家少年。
研究熱心な少年なのだ。

今年度が「ゆとり教育」世代の第一段が社会人になった年なのだそうだ。
その「ゆとり教育」というものが批判の対象になって久しい。
本来は教科書に載っていること以外の勉強を行う時間をとろう、と。自由に研究したり、個性を育むことを目的としたのだろうが、もう一つの目的が見え隠れして仕方がない。
学校の教員は春休み、夏休み、冬休み、と1年を通してたっぷり休みがあるのにも関わらず、世のサラリーマン並みに週休二日がで無ければ不公平じゃないか、と土曜日の休みを要求していたのではないのだろうか。
そして、彼らは春休み、夏休み、冬休みとたっぷり休んで、休んでもお給料はちゃんともらえ、尚且つ土曜日の休みも手に入れた。
夏休みだって子供の生活指導があるんだ、学校へも半分は出ているんだ、などという反論もあるのだろうが、少なくとも春と夏と冬には欠かさず、長期旅行へ出かけている教員を自分は知っている。
教員の週休二日はそのまま生徒のゲームを腕を上達させる時間にあてられるか、塾通いに宛てられた。

いや、教員批判がしたいわけじゃない。

この本の主人公の少年はその本来の目的だったはずのゆとり教育を自ら実践している。
ノートを肌身離さず持ち、気が付いた事は常に書きとめ、その内容を吟味する。
毎日何かを発見しその発見を記録する。
大人になるまで3888日。
一日、一日の探求の積み重ねを3888日重ねようという心意気は大したものだ。
大したものどころではないな。そんなことを心がけている社会人だって滅多にお目にかかれない。

少年の興味は幅広く、小学四年生にして「相対性理論」の本までも手を広げている。
同じクラスには宇宙に関心が有り、ブラックホールに興味を持つ友達が一人。
もう一人研究熱心な子が居て、この子も相対性理論の本を読んでいるというチェスの得意な女の子。

そしてこの話に欠かせないのが歯科医院のお姉さん。
少年はこのお姉さんが大好きで、もちろん服の上からであるが、おっぱいばかりを見つめている。
その行為にいやらしさは微塵もない。

この少年は正直なだけなのだ。
嘘も誤魔化しも何にもない。
あるのは探求心とそれから得られた知識の実践。
へんにくやしがったり、怒ったりもしない。
冷静なのだ。

ガキ大将グループから嫌がらせをされて、プールの中でパンツを脱がされてしまっても慌てない。
・ぼくが困れば困るほど彼らはますます楽しくなるはずだ。
・ぼくがちっとも困らなければ彼らは面白くない。
・面白くなければ二度とこんなことはしないだろう。
の三段論法で、困ることをやめて、プールからスッポンポンで上がることにする。
まさに達観している。
こんな子にはイジメも通用しない。

彼らの住むこの小さな町に不思議な現象が起りはじめる。

ある日、大勢のペンギンが町に現れる。

そこから始まる少年たちの研究と不思議なお姉さんの物語だ。

少年はその不思議な現象の謎を解明しようと、いろんな実験を試み、データをノートに書き記し、それを分析しようと試みる。
・問題を分けて小さくする。
・問題を見る角度を変える。
・似ている問題を探す。
少年が研究に行き詰った時に立ち戻る父から教わった三原則。

少年の父も母も少年の研究には理解が有り、父は時にはアドバイスを与える。

そんなこんなでわずかな期間で少年は見事に成長して行くわけだが、読後の哀愁感がなんとも言えない本なのである。

ペンギン・ハイウェイ [角川書店] 森見 登美彦著



きつねのはなし 


昔、京都に住んでいたことがあるが、この本を読むとその界隈の風景がまざまざと目の前に現出するように、懐かしく思いだされる。

京都の一乗寺にある芳蓮堂という骨董屋、古道具屋か?を舞台にする「きつねのはなし」。
「果実の中の龍」
「魔」
「水神」
の四編が収められている。

怪奇小説、と言うが果たしてそうだろうか。
「きつねのはなし」「魔」「水神」などは何やら京都を舞台にした日本昔話のような気がしないでもない。
京都で怪奇と言えばなんと言っても深泥ヶ池か。
自分が住んでいた頃も深泥ヶ池の幽霊話は良く聞かされた覚えがある。

四編の中で個人的に気に入っているのが「果実の中の龍」。
主人公が気に入っている先輩の実家は明治維新後に成り上がった大地主だったのだという。その先輩のお祖父さんは還暦を迎えてから自伝を書き始めたと先輩曰く。
幼少時代からの思い出を書き始めたはいいが、構想が膨らんで、明治時代の栄華を書き、更に構想が膨らんで明治ははるか遡り、古事記、日本書紀の時代まで遡ってそこからの家系の物語を書き始めたのだという。
無数の物語を集めて来てはその断片をつなぎ合わせ、長大な物語に仕上げて行く。
もはや妄想によって作られた一族の年代記なのだが、それを妄想と言ってしまうのはどうなんだろう。
どんな時代にも日本も他の国でも、成り上がった者が一族の箔をつけるために作り物の年代記を作って、それが年を経るうちにいろんな話が織り交ざって、今や史実になってしまったなどと言う話は山ほどあるのではないだろうか。

だが、作者の落とし所はそんなところではなかった。

先輩は祖父の血統をまさに継いでいた、いや、そうではなく先輩が祖父そのものであった・・・。
短編をあまり詳しく紹介してしまうわけにはいかないが、まことにその先輩こそ作家稼業そのものではないだろうか。
この一篇のみ他の三篇とはかなり違った味がある。

帯に「祝山本周五郎賞受賞」とあったが、なんのことはない。作者が別の本で受賞したということで、この本のことではなかったようだ。

もちろん、賞がどうしたなどは読者にはどうでもよいことで、他の三篇も何やら不思議な空間へ行って返って来たような読後感を感じる作品だった。

きつねのはなし 「新潮社」 森見登美彦著