カテゴリー: 麻生幾

アイソウイク



奪還


麻生幾がかつて2001年に書いた「宣戦布告」。
たった11名の北朝鮮の武装集団がやって来ただけで、右往左往してしまうこの国の有り様を描いていた。
飢えてガリガリになった北の兵士の画像が放映されてみたり、はたまた今回のミサイル打ち上げ失敗と言い、北の武装集団というものへの不気味な怖さは10年前よりも減っているかもしれない。

それでも日本の自衛隊は、組織は立派でも法律でがんじがらめにされてしまって身動きが出来ないのは、今も昔もさほど変わりはない。

小泉内閣の時だったか有事関連法案が可決されたのは、上の麻生氏の本が出版されたことがトリガーではなかったか、などと思ったものだ。

それにしてもウィンカーを付けなければならない戦車だとか、他の国では考えられないようなしばりがこの国を守る軍にはありすぎる中、それでも命をはっておられる人達には、本当に頭が下がる。

この「奪還」の中に、かつて奄美沖に出現した工作船を海上保安庁が撃破し、それから工作船はしばらく日本に近づかなかった、という記述がある。
「九州南西海域工作船事件」と一般に呼ばれている事件のことだろうか。たぶん真実なのだろう。
その正反対のことが、例の仙石・管の尖閣対応後に発生している。
断固たる意思をみせることが、国防にとってどれほど大事か、ということなのだろう。

この本に登場する海軍の特殊部隊、そんな工作船が来て海上保安庁の保安官に工作船に乗り込みそのまま拉致された時などに出番が訪れる。
自らの命を賭してでも、自国民を奪回する。
如何なる犠牲を払ってでも自国民を守る。
その為に必要なありとあらゆる訓練を積んで来たプロ中のプロ。

ところが、そのプロを運用する側にその意識が無ければ、宝の持ち腐れもいいところだ。
この本の中では実際に工作船に乗り込んで、敵と撃ち合い、保安官三名を奪還するが、部下の二名を殉職させてしまう。
そしてなんと敵は全滅。

帰還した彼らに待っていたのは、正当防衛だったかどうか、などという虚しい机上の空論。
結局、日本最強の部隊は解散させられてしまい、部隊長は辞職し、海外へ移住する。

この物語はそこから始まる。
その部隊長はフィリピンのミンダナオで海中での格闘訓練の特訓を続ける。

いつか日本が再度自分を本当に必要とする時のために。

命を賭した自分と自分の部下を見捨てた国のためにさらなる訓練などと、そこまで思える人がいるものなのだろうか。

そんな訓練のさなかに飛び込んで来た依頼が、NPOの国境なき医師団で働くの日本人女医が行方不明になったので探して救出して来て欲しい、という依頼。

ここからは、もうアクション映画さながら。
この男、身も心もどれだけ強いんだ!という感嘆符がつくほどの展開になる。

フィリピンの巨大マフィア組織を相手にたった一人で奪還作戦を進めて行く。

どこかの国の特殊部隊にでも所属した人からでも取材しなければ書けないようなプロの技。戦術。
プロが相手を見てプロと見抜くのはどんなところなのか、そんなプロの視点の記述が満載。

この本、「宣戦布告」が与えたインパクト。
「ZERO」が公安という組織について綿密に調べたような類の本とも違う。
それにあの東日本大震災直後の自衛隊を描いたノンフィクションの「前へ!」とももちろん違う。

それらに比べると、少々アクションものっぽい感もあるが、それでも麻生氏の思いには「身命を賭して」いる人達への敬意があるのだと思う。

奪還 麻生幾 著



前へ!


この年末年始で、あの大震災を再度取り上げたテレビ番組は多かったが、最も向かっ腹がたったのが1000年後に残したい映像なる番組の中での日本が最も危なかったあの時期をドキュメンタリー風のドラマとして作り上げていた映像だろうか。
それまでの映像が台無し。

これまで前首相を散々虚仮下ろしていたはずの民放で何故あんなドラマを作ったのだろう。
前首相や前経済産業相を何故あんなに持ち上げて登場させたのだろう。
直取材をさせてもらい、インタビューで登場してもらったお礼なのだろうか。

麻生幾という人、これまでも日本の知られざる公安警察だとか、北朝鮮兵士がほんの数人福井に来ただけでどのような危機的なことになるのか、といったのシュミレーション小説だとかを読む限りにおいては、公安なり自衛隊なり警察なりに取材可能な太い人脈をお持ちなのではないかと思っていたが、この本を読んであらためてその取材力の凄さを思い知らされた。

これまでの本は小説というフィクションだったが、これはノンフィクション。
各々の取材対象の人々はそのままの肩書きで実名で書かれている。

第一章では「福島原発、その知られざる戦争」というタイトルで原発直後からの数日間、まさに日本が最も危なかったあの期間に自衛隊がいかに立ち向かったのかが描かれている。
当時の内閣との最も異なる点は、福島現地に司令官を置きその現地司令官に判断を委ねた点。
現地司令官は、情報が錯綜しても混乱せず、声を張り上げて命令を下すことも、情報がないことに罵声を浴びせることもなく、至って沈着冷静。
寧ろ静寂だった、と記述にある。
まるでどなたかへの当てつけのような正反対の冷静ぶり。

彼らの使命は、原子炉冷却のための給水活動。
「3号機は安定し、安全です」と東電が言い、部隊が3号機に向かった直後に3号機の建屋が爆発する。
全身が真っ黒な埃にまみれ、防護服もズタズタになった彼らは、一旦退避の後再度給水へ向かう。

東電に関しては各メディアから散々叩かれているので、もはや触れるまいとも思ったが、どうもメディアの伝え方とはちょっと異なるのだ。
悪いのは、本社でのうのうとしている偉い人達で、現場の人達は立派だったはず。

ところがここで描かれているのは現場での東電のエリート意識や秘密主義。

次は3号機のプールだ、4号機のプールだ、と次から次へと指示が来ながら、その配置図や設計図はおろかおおまかな地図さえ出そうとしない。

Jヴィレッジというホテルも兼ねた立派な施設がありながら、自衛隊員には開放しない。ようやく開放しても現地の東電社員はホテル棟の全ての部屋に鍵をかけ、全ての会議室も使用させない。

現場で給水をする人達に知らせようともせず、ベント(放射性物質を含んだ蒸気の排出)を行おうとする。
それをテレビで知った幕僚からの連絡で隊員達はかろうじて退避する。

しかし、そんなことよりも自衛隊の幹部が戦慄を覚えるのは、免震重要棟に200名という社員がいながら、全体を俯瞰して見る、チェックする人間がいない組織についてだ。
全電源消失で次に何が起こるのか。
原子炉を冷やすことが最優先だったとしても、燃料プールの循環装置も動かない。
ならば燃料プールの燃料棒が露出する。
そのことに気が付く人間がいない組織に戦慄する。

著者はその有りさまを小学生のサッカーに例えている。
一つのボールへ向かってのみ群がってしまう。
しかしそれは小学生のサッカーに対して失礼かもしれない。

東電は組織としてひどかったとして、人間としてひとかったのは当時の経産大臣の海江田氏だ。
著者はその異常さを取材を経た上で何度も書いている。
自衛隊より遅れて放水に参加したハイパーレスキュー隊(東京消防庁)。
彼らも壮絶な覚悟を持って放水に参加したのだが、放水ポイントの放射線量があまりにも高過ぎたために一旦後退する。

とたんに東京の安全な場所に居る海江田から
「そんな臆病な指揮官代えろ!」
と怒号が飛ぶ。
「ハイパー下がれ!自衛隊と代われ!」
命令系統を無視したこの種の無茶苦茶な指示が海江田からは何度も発せられる。

ハイパーレスキューにすれば、そんなみじめな撤退を余儀なくされれば全国の消防部隊全体の士気にも関わる。

だから自衛隊の指揮官はその指示を受けず、もう一度ハイパーレスキュー隊に行かせ、その指揮官の指示を感謝で涙を流しながら受けたハイパーレスキュー隊は14時間放水し続け、2400トンもの水を燃料プールへぶち込んで来る。

海江田万里という男。
バブル時代に調子に乗って財テク本で人を踊らすような男が、一時は経済評論家っぽくコメンテーター席に陣取っていたかと思うと、いつの間にか政治家になってしかもこともあろうに経産大臣。
そんな男が、危うく総理大臣になっていたかもしれないのだ。
恐ろしい。
鳩山・管と続いてその次が海江田ならもう日本は終わっている。

自衛隊や防衛省幹部が東電に戦慄を覚えた以上に恐怖だったのは、次から次へと海江田からが発っせられる指示を聞いて、実は対策本部は1号機から4号機までの状態を全く把握していないのではないか、繰り出されるオーダーには何ら科学的な根拠も何もないのではないか、という疑念が徐々に現実になって来たことだ。

自衛隊、ハイパーレスキュー隊と言ったプロフェッショナル達はとんでもないアマチュア連中に振り回されながら、原発と戦い続け、給水し、放水し続けた。

やがて外部電源の復旧工事が進んだ後も、自衛隊は第一原発から引きあげなかった。

まるで協力会社の社員か何かのようにあしらわれたにも関わらす、不測の事態が起きた場合に東電の社員を救出するために。

冒頭の「1000年後に残すべき」というものを選ぶなら寧ろこの本の方にして欲しいものだ。

前へ!―東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録  麻生 幾 著



ZERO


1920年、ソ連の建国を受けての共産主義の台頭に危機感を持った当時の日本政府は内務省に警保局保安課を設置。
更にその内部に組織図に載らない組織、<作業>と命名された機関を設けた。
そこは協力者獲得工作、盗聴、文書開被、家宅侵入・・・いわゆるスパイ活動を行う組織である。

戦後、GHQにより警保局が解体される事で自動的に消滅したはずの組織なのだが、ソ連が脅威を増すとともに再び暗号名<サクラ>として復活。
千代田区に移転した際にも<チヨダ>と暗号名を改称して存続。
そして現在更に改称されて<ZERO>という暗号名で存続し、全国公安警察の頂点に位置する存在なのだという。
警察の中でも、その名前を口にすることすら許されない組織の名前。
それが<ZERO>。

もちろん、これは小説であるから架空のものなのだろう。
だが麻生氏の書いたものには結構実在する組織の名前がそのままの名前で登場したりする。
警察の組織や自衛隊の組織の名前など。
特に警察の内部でだけ使われるような専門用語、符丁、自衛隊内部からの情報が無ければ到底知りえないだろうと思える様な専門知識、などなどを鑑みるにつけ、麻生氏の書き物にはどこまでが作った話でどこまでが事実を引用した話なのか、判断に悩むところがある。

とはいえ、本のタイトルはその「ZERO」なのだが、「ZERO」という機関が活躍する話ではない。
活躍するのは「警視庁公安部外事第2課」というおそらく実在する組織の中の一警察官である。

日本はスパイ天国だとか、他国の諜報機関に国家の機密事項をいとも容易く垂れ流してしまう国だとか、言われ続けて久しい。
自衛隊からの漏洩。企業からの漏洩。
それどころか国のTOPである首相経験者が某国諜報部から女性をあてがわれて無償ODAを約束してしまったりなど。
あまりにも機密漏洩ということに関して無頓着でありすぎる。
逆に外国に対する諜報活動となればCIAもKGBも持たない日本は、その方面では全く機能していないように思われているが、どうもそうも言い切れないらしい。
情報協力者の獲得工作など実際に行われているのかもしれない。

公安部外事第2課の峰岸というベテラン警察官、こういう職人の様な警察官は警察の各部署にちゃんとまだ居るのだろう。
家庭などはなから犠牲にしなければ到底そこまでの任務は行えないだろう。
彼らは一体、誰のためにそこまで、と思えるほどに仕事に献身的なのである。

最近、日本の警察の能力が低下したという類の批判に対しても彼らの様な職人警察官ならいくらでも言い返したいところだろう。

この峰岸という警察官、あろうことか中国への潜入を行うはめになってしまう。
ここでも、一体誰のためにそこまで、なのである。国のため?いやそんな単純じゃない。北による拉致事件、発生から何十年と「そんな事実はない」と相手の言う言葉を鸚鵡返しにしてきたのがこの国である。

峰岸が彼の地で捕まれば、日本は平気で見捨てるだろう。
そんな人間は現職の日本の警官には存在しない、と。
実際に峰岸は行動を起こす前に一旦、辞表まで書いて警察手帳なしの立場で潜入しようとする。
まさに自殺行為そのものだろう。

この物語の壮絶なところは、そういう日本の体質だけを浮き彫りにするのではなく、中国における権力闘争とはいかなるものか、という点を執拗に言及しているところだろうか。
12億~13億の人民の頂点に君臨する共産党の各勢力の権力へのしのぎ合い、その凄まじいさたるもの世界一ではないだろうか。

この話、麻生幾の前作「宣戦布告」よりもはるかに救いがある。

「宣戦布告」では自衛隊の投入に関しても散々すったもんだをし、結局被害者が出て来て止む無くその決定に至るまでの官邸の姿勢はぶざまとしか言い様がないものがあったが、この物語の中ではまさに国の命令にて死地へ赴き、窮地に立つ警察官を国家は見捨てるのか?
の問いに対して、「救出する」を選択するのだ。

日本の自衛隊に課された宿命(決してこちらから発砲してはならない)は陸上自衛隊のみならず海上自衛隊にも適用される。
潜水艦員などに魚雷を発射されるまで何も出来ないなどと言う事は魚雷来たら、潔く死ね、と言っている事に等しい。

この救出の任にあたった潜水艦の館長は「死」を決意して任務に取り組む。
日本の水域内に出没する北の潜水艦を追いかけるのとはわけが違う。

全くその逆で相手の水域へ侵入して来なければならないのだ。
潜水艦の中では何一つのミスも許されない。
命がけの緊迫感、臨場感が伝わって来る。

この国家の危うさ、情けなさに対して警笛を鳴らす書き物をする麻生氏が何故、今回は「救出する」筋書きを選択したのだろうか。

やはり、そうであって欲しいという願いからなのだろう。

ZERO 麻生幾(著) 上・下巻