人魚の眠る家東野圭吾著
この本で脳死の本当の意味が初めてわかった。
脳死と言う状態はあり得て、それを死と見做すのか生と見做すのかがちまたで議論されているものだとばかり思っていた。
臓器を提供する意思を本人なり家族なりが示して初めて脳死の判定が行われるのだそうだ。
提供の意思無しでは、いわゆる脳死状態であっても脳死でもなく、もちろん死亡でもない。
心停止を待って初めて死亡となる。
つまるところ、家族の意思次第で本人は生きていることにもなり得るし、死んでしまったことにでもなり得る。
なんとも重たいテーマに取り組んだものだ。
6歳の女の子がプールで遊んでいる時に、排水溝へと吸い込まれそうになり、浮かんで来ない。気付いた大人が助け出すものの、意識は戻らないままとなる。
可愛い盛りの娘の意識が戻らなくなって、ショックままならない状態の親を前にして医者は結構冷徹なことを言い始める。
娘さんの臓器を提供するお気持ちはありますか?と。
いきなり、そこですか? ってなるよなぁ。
もう意識が無い状態がかなり長く続いて、涙も枯れ果てた頃ならまだそういう事への判断も冷静になったかもしれないのに。 いや、これは一般的な話で、この両親にはたぶん当てはまらない。
たまたま、父親が介助のための脳からの伝達の装置やら、視覚障害者へ信号を送る事で、障害物を避けながら歩行することを可能にするような装置を開発している会社の社長だったこともあり、つてを辿って、まずは人工呼吸器無しでの呼吸を可能にし、病院を退院して自宅で奥さんが看護にあたる。
そのあとがだんだんすさまじくなっていく。
奥さんが希望の光を失ってしまわないように、そのたっての希望をかなえようと、会社の技術者を家へ出入りさせ、背中の脊髄に信号を送ることで、手をあげたり、下げたりなども出来るようになり、それがどんどんエスカレートして行く。
奥さんにしてみれば、娘はまだ生きているのよ、ということなのだが、はたから見た人には、死人の身体を無理矢理、機械で動かしているだけにしか見えない。
だが、筋肉を動かすことで全身の血色も良くなり、年を経る毎に身長も伸び、どんどん成長していくのだ。
方や、実際に臓器移植が必要な子供の患者が多くいて、日本国内でドナーを見つけることはほぼ不可能なので、アメリカへ行かざるを得ない状況がある。
その費用たるや、億を超える金額で、とても一般の勤め人に賄える金額ではない。
そういう状況の中、物語は進んで行く。
何が正解なのか。
作者はどちらを正解と思っているのか。
読んでいる立場としては、どんどんエスカレートしていくこの奥さんに誰かブレーキかけなくていいのか、とか、弟があまりにも可愛そうだろ、とか思ってしまうのだが、刑事を自宅へ呼んで、意識のない娘を刺し殺したら私は殺人罪になるのですか?皆、娘はもう死んでいる、と言っている。もう既に死んでいる人間を刺した私は殺人になるのですか、と問い詰めるあたり、かなり理路整然としている。
作者はシロとでもクロとでも言える現在の日本の法制度を憂えているのだろうか。
途中までは、もはや異常だ、と思えたこの奥さんなのだが、エンディングまで読んでしまうと、案外この奥さんが正解だったのかな、などとも思えてしまう。
まぁ、正解なんて無いんでしょうけどね。