神の汚れた手曽野綾子著
曽野綾子という作家、昔から山ほどエッセイなどは読ませて頂き、その見識の高さにいつも感心していたのですが、あらためて考えてみるにエッセイは山ほど読んでいるのに、一度もその小説を読んだ事が無かった事に気が付きました。
で、その代表作と呼ばれる中の一冊「神の汚れた手」を読んでみたわけなのです。
書いているのは「クリスチャン」という先入観がまずありました。
またまたタイトルに「神」という文字がある事からしてもさぞや「クリスチャン」らしき物語なのだろうなぁ、などと勝手に想像していたのですが、さすがはエッセイで毎度感心させられた曽野綾子さん。やはり並のクリスチャンでは無いですね。
この本、産婦人科医の野辺地医師が主人公。
産婦人科医という立場上、もちろん出産という人の生命の誕生に立ち会う仕事をしながら、その反面全く正反対の堕胎手術を行なうという生命を亡き者にする事も仕事の一貫として行っている。
クリスチャンならば当然一方的な「中絶反対」という立場なのかと思いきや、この野辺地医師の元へは様々な中絶要望の女性が訪れ、中絶しなければならない様々な人間模様を主人公を通して描き出す。
その中には姑に無理矢理連れて来られた人。
まだ未成年の学生だから産ませるわけには行かないと親から連れて来られる人。
貧しさゆえに到底赤子を育てられないと自ら来る人。
またその逆になんとしても一児が欲しいがどうしてもその一児に恵まれないと悩む壮年夫婦。
人間の生命というものを扱う話だけに非常にデリケートな話なはずなのに、主人公の野辺地医師のあっけらかんとした性格がその深刻さを打ち消している。
打ち消してはいるものの野辺地医師自身も仕事だと割り切りながらもその実、心の中では割り切りきれていない葛藤を作者はさりげなく引き出しもしている。
野辺地医師が教会の宗近神父や姉の友人でクリスチャンの筧搖子のところへ行って酒を飲みながら頻繁に話をするのはその葛藤のあらわれなのではないでしょうか。
私も親戚にクリスチャンが居たこともあって教会という場所に何度か足を踏み入れた事が過去にあります。
教会というのは地域地域によって活動形態が全く異なることをその頃知りました。
やけに活動的な教会もありました。日曜のミサでは賛美歌を歌って、聖書を読んででは飽き足らず、その時の政府の方針にまで異を唱えるようなお説教がなされ、いろいろ署名活動あり、敬虔な信者の中からXX部会、YY部会、ZZ部会・・・、などと委員を選出し、かなり組織的な活動を行なうような協会が方やあるかと思えば、某地方のほんの小さな掘っ立て小屋の様な教会ではお説教を垂れる事よりも、来られた方々のいろんな意見を自由に話し合いをさせるような教会もありました。
その後者の神父さんは若いのですがとても人柄が良く、意見の違いなどは当たり前と人の意見に耳を傾けておられました。
この野辺地医師が頻繁に会う宗近神父というのはその後者に近い存在なのでしょう。
前者の様な教会神父であれば、彼の行為は糾弾され、彼自身も会いになど行かなかったのではないでしょうか。
こんな事を書くと私が中絶賛成人間みたいに思えるかもしれませんが、他人様はどうであれ、こと自分や自分の身内であればそれがいかなる理由であろうとも絶対に反対すると思います。胎児と言えども生命には違いないですから。
私はクリスチャンではありませんが、いかなる理由であろうともそれを亡きものにしてまでのことをして何らかの幸福を得ようとは思いません。
また逆にその考えを人に強要するつもりなどは毛頭ありません。
現在の中絶人口がどのくらいなのか全く知りませんが、やはりなんらかのやむを得ない事情があって中絶に至るのが一般的でしょう。
ところが、戦後に出来た優生保護法の影響なのでしょうか、それとも戦前の産めよ増やせよの反動なのでしょうか、一時期人口中絶が一般の家庭でごく当たり前の如く日常的に行なわれた時代もあったといいます。
少数家族化が国策とまでは言いませんが、少数家族化の考えのもとで人口的に奪われた胎児の生命の数は、戦争犠牲者に匹敵するかもしれません。
「神の汚れた手」はそんな時代背景があればこそ書かれたものなのでしょう。
それにしてもこの本、半ば医学書と言っても過言ではないほどに専門的な分野に踏み込んでいます。
曽野綾子さんの生命に対する並々ならぬ思いがそれだけの取材力を発揮されたのでしょうか。
私にはこの物語に登場する筧搖子というさっぱりとした女性が曽野綾子さんそのものにかぶっているように思えました。
曽野綾子さんという人はクリスチャンと言っても全くその範疇の中で思考が固まってしまう人では無く、寛大な心で広い視野でものごとを見る事の出来る人なのだろう、とこの作品を通してあらためて思ったのであります。