日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた
ウズベキスタンの首都タシュケントでかつて大地震が起こった際、3万戸以上の住宅や公共施設が倒壊し、7万世帯以上が住む場所を失ったという。
そんな倒壊、倒壊の中で唯一無傷で整然と立ち続けた建物があった。ナヴォイ劇場というオペラハウスで多くの市民の避難場所となった。
そのナヴォイ劇場を建てたのが、第二次大戦末期に日ソ中立条約を破棄し、突然攻めて来、日本が無条件降伏した後も侵攻し続けたソ連軍の捕虜となった日本兵だった。
日本兵の捕虜の多くは極寒の地シベリアで強制労働についたが、彼らはひたすら西へ西へとソ連の東の果てから西の果てまで送られて、革命から30周年の記念に建設計画のあったナヴォイ劇場という壮大な建物を建造する事となったのだ。
戦前に日本人が海外にて建造した建造物の評価が高いうわさは良く聞くが、あくまでそれらはデベロッパーによる建造物である。
彼ら兵隊になる前はそれぞれ、左官業だの建築関連に携わって来た人も居るだろうが、組織として、建築業を営んでいたわけではない。
この劇場建設の総司令官はもちろんソ連側の将校だが、実際に建設を行う部隊を取り纏めていたのは永田少佐というまだ若干24歳の青年。
今でいえば年齢的には社会人2年目の新人に毛が生えたような年齢。
彼はこの部隊の人間を一人残らず、生きて日本の地を踏まそうと決意を固め、部隊の隊員たちにもその考えを伝える。
また、この建造物に関しても「我々はソ連の捕虜ではあるが、日本人の誇りと意地にかけても最良のものを残すんだ」という強い信念と決意を持って取り組む。
世界に引けをとらない建築物の完成をこの目で見届けたいと帰国のチャンスまでも断る。
ソ連将校の言いなりになっていただけではない。
一日のノルマをこなさない捕虜には食事の量も減らされるのがソ連の決めたルールだったが、これに対して永田隊長、理詰めでソ連将校のTOPと直談判をして、平等な食事を勝ち取ったりもしている。
ウズベク人にしてみれば日本人捕虜たちは驚きの連続の存在だったであろう。
ドイツや他の国の捕虜ならば、強制的に働かされているわけなので、自ら積極的に働こうなととは到底考えないし、それが当たり前に思っていた事だろう。
日本兵捕虜は積極的に取り組みばかりでなく、楽しく働けるために様々な工夫をし、周囲のウズベク人達も楽しませようとする。
おかげでウズベク人後々まで誇れる立派なオペラハウスを手にし、日本人への感謝の気持ちを忘れないという。
我々現代の日本人は、こうやって先人たちが世界に残してくれた親日の遺産を受け継いだわかなのだが、いつまでも遺産だけでは持たないだろう。
令和の日本人も将来世代のために日本人として感謝される何かを残したいものだ。