赤いカンナではじまるはらだ みずき


出版社の編集者達が主役の短篇が五篇。

本屋へ行って、本の並べ方に個性を感じ、この並べ方はあの人がやったに違いない、などと思うことがあるだろうか。
本屋も場末の駅前の小さな本屋などでは、まともな単行本にはもはや見切りをつけたのか、並んでいるのはコミック本が大半であとはマニア向けの雑誌、広告にあるようなビジネス本ばかり。
それでもわずかながら文庫本のコーナーが残っていたり、たまには新刊本が並んでいたりするのはまだまともな本屋だろう。

小さな本屋と言えば老眼鏡をかけたオヤジが本を読んでいるフリをしながら垂らした老眼鏡の上からギョロっと万引きをされやしないか、と客を睨んでいる姿などは、ドラマかアニメの世界の話だろう。
書店の店員、店主というのは重労働なのだ。
売れ行きの悪い本を棚から下し、毎日、毎日、届く新刊本に入れ替えて行くそれだけでも結構な労働なはずである。
本を読んでいるフリをして客を監視している暇などはおそらく無いだろうし、自分の趣味に応じた本の並べ方をするなどというのは、よほど豊富な人材を抱えた本屋でしか出来ないのではないだろうか。
本当に欲しい本を探すには大手の本屋に足を運ぶしかないし、そこでは大抵出版社毎、作家毎にきれいに並んでいる。

この本の「赤いカンナではじまる」に出て来る女性書店店員はそれをやってのけている。出版社の営業マンが見て一目で彼女の本棚だとわかってしまうほどに。

店員が本の並びに拘れる本屋というのはどういう本屋なのだろう。
この書店の規模が中堅どころというのがミソなのかもしれない。
実際に出版社勤務を経験した作者が書いているのだから、そういう本屋というのは存在するのだろう。

わが身を振り返れば、我が家の自分の部屋の本棚はかつては自分の好みで並びを考えた頃も確かにあった。
引越しを繰り返すうちに本棚の本の並びなどは無茶苦茶になり、一旦そうなってしまうと、次から次へと購入する本は、本棚の前へ積んでおくようになり、やがてそれは二重になり三重になり、今では探したい本を探すことも不可能になってしまった。

たまに段ボールへ本を詰めて古本屋へ売りに行ったりする時に全く同じ本が出て来たりする事など一度や二度では済まない。
すでに整理するということは放棄してしまった。

こんな書店員みたいな人が家に一人でも居れば、だいぶんと違ったことになったのだろうなぁなどとくだらないことが頭によぎりながらこの本を読んでしまった。

そのこだわりを持って本の並びを考えるこの店員。
毎日届く、新刊の段ボールの中から、「赤いカンナ」ではじまる本を探していた。

それ以上のことは未読の方のためにも書いてはいけないのだろう。

短篇で各々が別の物語であるが、出版社の営業マンとして同じ名前の人物が何回か登場したりもする。

「風を切るボールの音」
高校時代のサッカー部のキャプテンとマネージャーの10年ぶりの再開。
今でもサッカーの世界から離れられない元キャプテン。
彼女とは高校を卒業してからしばらく付き合った仲だというのに彼女のSOSを無視したこの男。
なんだか、わかるでようでやはりわからない。
何故か。我が高校時代は同じサッカー部でも男子校で女子マネージャーなど存在しなかったからか。
彼はマネージャーではなく、同じチームメートからのSOSなら駆けつけたのだろうか。わずかな期間でも付き合っていなければ駆けつけたのだろうか。
その時の彼の心境は10年近く前の彼にしかわからないのだろう。

「美しい丘」
これがおそらくこの本の秀逸。
秀逸なだけに敢えてふれないでおこう。

「いちばん最初に好きになった花」

「最後の夏休み」
大学の四回生になっても就職活動をせず、アルバイトで売るはめになった家電の掃除機。到底無理だと思えた店頭販売セールス。それでも掃除機100台を売ってやると決めて売り切ったこと。

成り行きで捕まえることになったザリガニ百匹。
どちらも目標は100。

この主人公、家電の営業にでもなればいいのに、などと思ってしまうのはこの就職難のご時世だからだろう。

自分はいったい何をしたいんだ!という若者の心を表したかったのかもしれないので、おそらく作者の意に反する感想かもしれないのだが、100台を売り切り、100匹を捕まえた、やりぬいた彼には大いなる達成感と自信を持って社会人への一歩を踏み出せるのではないだろうか。
などとこの作者の読者にあるまじき素直な感想を持ってしまった。


「赤いカンナではじまる」 はらだみずき (祥伝社)

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