時が滲む朝楊逸


中国人として初めての芥川賞受賞。
あの天安門事件の時の大学一年生が主人公。
学生達の叫んだ民主化、民主化は掛け声だけだったのだろうか。
登場人物は民主化とはいかなるものなのか、イメージがつかめないままどんどんその運動の渦中に入って行く。
天安門事件を扱うのなら、あの当時中国の学生達を燃え上がらせた、また燃え上がらざるを得なかったその背景についてもっと踏み込んでいってほしい気持ちはあるが、民主化と言ってもそのイメージもないままに突入した学生が主人公ならばその背景を描くことは返って矛盾となる。

学生を煽った先生はアメリカへ亡命。
かつての同志たちもバラバラに。
日本へ移住した主人公は中国の民主化運動のグループに参加する。
ちょうど北京五輪の最中である。
その北京五輪の開催反対の署名活動を行う人物が主人公になった本がこの時期に賞を受賞したこととの因果関係などを勘繰りたくなってしまうが、芥川賞の受賞作家達が選考委員となって決定される賞である。
背後に政治的意図などは皆無だろう。

主人公はひたすら生真面目に香港返還の反対運動や五輪開催反対運動を行おうとするのだが、グループに集まる人々の目的は様々で、商売のための人脈作りが主だったりする。

中国本国の経済発展を横目で見ながら、民主化という名の霞みだけを食っていては誰も満足に食べてはいけないということなのだろう。

この本より何より楊逸という人の芥川賞受賞のインタビュー記事の方がはるかにインパクトがあった。
このインタビュー記事の内容を小説にした方がはるかに読む者を引き付けたのではないだろうか。

幼年時代は文化大革命の真っ盛り。
五人兄弟で長姉は下放の折りに事故で亡くなる。
その次は一家全員が下放でハルピンの家から地方へ。
行った先は零下30度の激寒の地。
もちろん電気もガスも暖房器具に相当するものも何にもない。
何年かしてようやくハルピンへ帰ることが出来るのだが、一家で飼っていた愛犬までは連れて帰るわけにはいかない。
近所の人に面倒をみてもらおうとお願いしたら、鍋にして食べられちゃった。
うーん、なんとも中国らしい話だ。
帰ったハルピンには住む家がない。
一家が住んだのはなんと高校の教室。
学生達が登校してくる前に携帯のコンロで朝ごはんを作り、登校してくる頃にはそれぞれの職場や学校へ散って行き、学生達が帰るとまたその教室へ舞い戻り、晩御飯。

ようやく学校の敷地内に部屋を設けてもらうが、お隣りの一家が学校が購入したテレビをお正月にみようと自分の部屋に持って来て、というあたりも中国人らしさならそのあとがもっとすごい。スイッチを入れたとたんにテレビから火が吹き出して、部屋は全焼。
そのあおりを受けて楊逸さん一家の部屋も全焼してしまう。

なんともはや踏んだりけったりもいいところ。
ただ多かれ少なかれ、党員のエリートでもない限りは同じような境遇に出くわした時代なのだろう。

今でこそ、経済発展めまぐるしい中国だが、ほんの少し前までは街中は人民服と自転車であふれ、カラー写真といえば毛沢東の写真ぐらい。
モノクロの時代だったのだ。スイッチを入れただけで燃え上がるなんてというテレビを作る方が難しいのではないか、と思えるが、この話は誇張ではないのだろう。
肝心の天安門事件の頃にはもう日本へ移住していたが、北京に学生が集まる姿を見て傍観は出来ないと北京まで足を運んでいる。
人民解放軍が登場する頃には実家へ戻っていたので、難は逃れたが、その楊逸さん自身が民主化運動って何なのか意味が良くわからないままだったと言っている。
素直な人だ。
妹を連れて北京を歩き、蘭州ラーメンを食べさせたところ妹がチフスにかかってしまう。親はそんなものを食べさせるからチフスにかかるんだ、と中国に住む人でさえ中国の食に対する信用は薄い。このあたりは今でもそうなのだろうか。

いずれにしても、そんな生い立ちをもってしても楊逸という人なんともあっけらかんとしている。
これがいわば大陸の気風というものだろうか。
次作ではそういう大陸の気風というものが作品に表れたらいいのになぁ、などと思ってしまうのである。

第138回芥川賞受賞 時が滲む(にじむ)朝 楊逸(ヤン・イー)著

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