囚人道路安部譲二


北海道を車で走るとまっすぐな道路がえんえんと続きます。
広大な農地を突っ切り、原野を突っ切り、ひたすら続く一本道。
こんなところに最初に道を通した人はさぞかし大変だったんだろうな、などという考えが頭の片隅によぎったとしても、それはほんの瞬間でその快適さと爽快な気分をでそんな考えはいつの間にか忘れてしまうでしょう。

その最初に道を通した人大変どころの騒ぎじゃなかった、ということがこの「囚人道路」を読めばわかります。
なんという過酷な工事だったのでしょう。
この本で描かれる道路工事は、網走から北見峠までの四十五里、180Km。
180Kmって東京から神奈川県を通り越して静岡県まで行けてしまうほどの距離ですよ。
道幅はそれまでの道路の倍、通常一間半(2.7m)のものを三間(5.4m)の広さととし、工期はたったの7ヶ月。
それまでまったく何にもない原野にたったの7ヶ月って、その目的はなんだったのか。

北海道の初期の幹線道路の工事はほぼ明治10年代の後半から明治20年代の前半に集中しています。
本州には元々幹線には道というものがあったのに比べれば、北海道はまだまだ未開の原野。インフラの整備の必要性はわかりますがその時期にそれだけ集中して、しかも急ピッチで行う必要が本当にあったのだろうか。
本州にだってまだまだ鉄道の敷設やらインフラ整備はいくらでも必要だったでしょうに。
安部氏はこの網走から北見峠までの超過酷労働工事に目を向け、その一部始終に疑問を持ちます。
若い看守に向かって、寝てる間に針で目を突くぞ、などと「塀の中の懲りない面々」の作者ならではのシーンがたまに顔を出しているのが嬉しい。

この工事建設は全て網走監獄に送られた囚人の手によるものでした。
集められた囚人はおよそ1000名。
工事完了に至るまでにその1/3が命を落としている。

単なる草っぱらじゃなんですよ。地図を見てください。
いかに無茶苦茶な工事だったか、少しでも想像がつきます。
大木が有ったって迂回などしない。木をまず切り倒して、さらには根っこまで引き抜いて、そこに出来た大穴には石を埋めて慣らす。
また、そんな大木がいくらでもありそうな場所じゃないですか。

工事は人足なりの専門の連中にさせれば、要領もわかろうと言うもの。
登場人物の元左官職人、山田真吾は言います。
この左官職人の罪は江戸をわがもの顔で歩く新政府の役人に石を投げたという罪で、懲役20年の刑。石で誰かが怪我をしたわけでもない。ちょっと帽子をかすめただけ。
先だっての北京五輪の長野での聖火リレーに卵を投げつけた輩などにいきなり20年の懲役と言っているようなものです。

工事をしている者の大半はそれまで土木工事などには無縁だった者。
おそらく大半は元幕軍側にいたであろう旧士族の連中など。

工事作業などの進捗はプロとしての要領がモノを言うのは当たり前だが、それが無くてもやる気、モチベーション、それは仕事量に見合う報酬という対価であったり、工事監督に対する個人的恩義だったり、何かそういうものでもなければ、如何に看守が怒鳴ろうと、せかそうと、いやいやだらだらと、と能率が良いわけは無いですよね。

そのことに気が付いたのか、工期が終れば、全員無罪放免。この開拓した北海道に土地を与える、と言い渡し、一時的に工事士気を高める事に成功する。

とはいえ、工期が日々遅れて来ると、とうとう昼間だけでなく夜間も突貫工事に突入。
脱走するものが増え始めると、とうとう鉄鎖をまかれて一貫(3.7kg)の鉄球を引きずりながらの作業になる。
しかも飯も貧弱。

もはや、死ね、と言われている様なものではないでしょうか。

実際に工事完了までにはその1/3が命を落としている。

果たしてこの工事の目的はなんだったのか。

あの明治憲法を起草した金子堅太郎は、囚人はいくら酷使してもよく、酷使によって死のうと構わない。国費の節約になる。
という案を上奏したといいます。
日露戦争の際にかつての学友だったセオドアルーズベルト大統領に根回しをして講和を有利に運んだ人、とその賢才ぶりで有名ですが、その話が本当ならちょっと失望してしまいますね。

安部氏はこの無茶苦茶な道路建設の建設の首謀者は伊藤博文だろう、とあたりをつけます。金子堅太郎が進言をしたならその相手は伊藤博文であってしかるべきでしょう。

明治の元勲。功労者として後に千円札の顔にまでなった伊藤博文ですが、なんのことはない。幕末・維新での真の功労者はほとんど30代で亡くなってしまっている。
まぁ生き残るのも才能といったところでしょうか。

日清戦争、さらには日露戦争に備えて対ロシアの為の軍用道路だった、と言われながらも果たして目的は本当にそうだったのか。
ロシアが攻めて来れば、下手に道路があった方が敵に有利になってしまうのではないか。
安部氏はこの道路建設の目的についての仮説をたてます。

その仮説の真偽はわかりません。

寧ろ、伊藤博文はまだ旧士族の名残を持った連中を尽く処分してしまいたかっただけなのではないか、などと安部氏とは別の感想を持ちました。

工期完了とともに全員赦免のはずが、どこをどう調べてもその痕跡が無いと言います。
どこを探しても末裔がいない。
当時の看守の座談会資料などは残っていても囚人による資料が全くない、というのは奇妙を通り越して、一つの結論に至らざるを得ないでしょう。
おそるべし。伊藤博文。

工事中に命を落とした人はお墓がに埋められるでもなく、鎖を付けたまま、そのまま土をかぶせておしまい。その土饅頭がかつては至る所にあったといいます。
それを後世の人は鎖塚と呼び、今ではその残りも無くなり、代わりに慰霊碑が建っているそうです。

いずれにしても現在の北海道の快適な道路のいしずえは、そういう無名の人達の地獄の苦しみによって築かれたものなのでしょう。

鎖塚に合掌。

囚人道路 安部譲二 著