ZERO麻生幾


1920年、ソ連の建国を受けての共産主義の台頭に危機感を持った当時の日本政府は内務省に警保局保安課を設置。
更にその内部に組織図に載らない組織、<作業>と命名された機関を設けた。
そこは協力者獲得工作、盗聴、文書開被、家宅侵入・・・いわゆるスパイ活動を行う組織である。

戦後、GHQにより警保局が解体される事で自動的に消滅したはずの組織なのだが、ソ連が脅威を増すとともに再び暗号名<サクラ>として復活。
千代田区に移転した際にも<チヨダ>と暗号名を改称して存続。
そして現在更に改称されて<ZERO>という暗号名で存続し、全国公安警察の頂点に位置する存在なのだという。
警察の中でも、その名前を口にすることすら許されない組織の名前。
それが<ZERO>。

もちろん、これは小説であるから架空のものなのだろう。
だが麻生氏の書いたものには結構実在する組織の名前がそのままの名前で登場したりする。
警察の組織や自衛隊の組織の名前など。
特に警察の内部でだけ使われるような専門用語、符丁、自衛隊内部からの情報が無ければ到底知りえないだろうと思える様な専門知識、などなどを鑑みるにつけ、麻生氏の書き物にはどこまでが作った話でどこまでが事実を引用した話なのか、判断に悩むところがある。

とはいえ、本のタイトルはその「ZERO」なのだが、「ZERO」という機関が活躍する話ではない。
活躍するのは「警視庁公安部外事第2課」というおそらく実在する組織の中の一警察官である。

日本はスパイ天国だとか、他国の諜報機関に国家の機密事項をいとも容易く垂れ流してしまう国だとか、言われ続けて久しい。
自衛隊からの漏洩。企業からの漏洩。
それどころか国のTOPである首相経験者が某国諜報部から女性をあてがわれて無償ODAを約束してしまったりなど。
あまりにも機密漏洩ということに関して無頓着でありすぎる。
逆に外国に対する諜報活動となればCIAもKGBも持たない日本は、その方面では全く機能していないように思われているが、どうもそうも言い切れないらしい。
情報協力者の獲得工作など実際に行われているのかもしれない。

公安部外事第2課の峰岸というベテラン警察官、こういう職人の様な警察官は警察の各部署にちゃんとまだ居るのだろう。
家庭などはなから犠牲にしなければ到底そこまでの任務は行えないだろう。
彼らは一体、誰のためにそこまで、と思えるほどに仕事に献身的なのである。

最近、日本の警察の能力が低下したという類の批判に対しても彼らの様な職人警察官ならいくらでも言い返したいところだろう。

この峰岸という警察官、あろうことか中国への潜入を行うはめになってしまう。
ここでも、一体誰のためにそこまで、なのである。国のため?いやそんな単純じゃない。北による拉致事件、発生から何十年と「そんな事実はない」と相手の言う言葉を鸚鵡返しにしてきたのがこの国である。

峰岸が彼の地で捕まれば、日本は平気で見捨てるだろう。
そんな人間は現職の日本の警官には存在しない、と。
実際に峰岸は行動を起こす前に一旦、辞表まで書いて警察手帳なしの立場で潜入しようとする。
まさに自殺行為そのものだろう。

この物語の壮絶なところは、そういう日本の体質だけを浮き彫りにするのではなく、中国における権力闘争とはいかなるものか、という点を執拗に言及しているところだろうか。
12億~13億の人民の頂点に君臨する共産党の各勢力の権力へのしのぎ合い、その凄まじいさたるもの世界一ではないだろうか。

この話、麻生幾の前作「宣戦布告」よりもはるかに救いがある。

「宣戦布告」では自衛隊の投入に関しても散々すったもんだをし、結局被害者が出て来て止む無くその決定に至るまでの官邸の姿勢はぶざまとしか言い様がないものがあったが、この物語の中ではまさに国の命令にて死地へ赴き、窮地に立つ警察官を国家は見捨てるのか?
の問いに対して、「救出する」を選択するのだ。

日本の自衛隊に課された宿命(決してこちらから発砲してはならない)は陸上自衛隊のみならず海上自衛隊にも適用される。
潜水艦員などに魚雷を発射されるまで何も出来ないなどと言う事は魚雷来たら、潔く死ね、と言っている事に等しい。

この救出の任にあたった潜水艦の館長は「死」を決意して任務に取り組む。
日本の水域内に出没する北の潜水艦を追いかけるのとはわけが違う。

全くその逆で相手の水域へ侵入して来なければならないのだ。
潜水艦の中では何一つのミスも許されない。
命がけの緊迫感、臨場感が伝わって来る。

この国家の危うさ、情けなさに対して警笛を鳴らす書き物をする麻生氏が何故、今回は「救出する」筋書きを選択したのだろうか。

やはり、そうであって欲しいという願いからなのだろう。

ZERO 麻生幾(著) 上・下巻

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