カブールの燕たちヤスミナ・カドラ


旧ソビエト軍がアフガニスタンに侵攻して以来というもの、アフガニスタンの人々に安寧が訪れたことなどあったのだろうか?

人々の心は、すさみきっている。
街を無気力が支配する。

この話の舞台は、ソ連がアフガン侵攻をあきらめて撤退した後、アフガン内部での熾烈な内戦。その中から台頭して来たタリバン勢力でがカブールを制圧後、徐々にその勢力圏を広げ、ほぼアフガン全土へと勢力圏を拡大していこうとしている、そんな頃のアフガン首都カブールが舞台になっているお話。

二組の夫婦が登場する。
三人も四人も妻を持つ人がいるような中で、この夫婦は双方共、一夫一妻。

方やの夫婦の亭主は拘置所の臨時雇いの看守。妻が病気で毎日イライラばかりしている。
方やの夫婦は夫も妻もソ連侵攻前のカブール大学に通っていたのだろう。
その当時のカブールは、イスラムのにおいの薄い街で、特にカブール大学あたりでは、欧米の一流大学並みの教育を受けた人が多く、自由の空気を浴びていた人が数多く居ただろう。
特にこの妻は、チャドリを頭からかぶるなどと言うのは屈辱以外の何物でもないと思っている人なので、かなり若い頃の自由の気風が抜けないのだろう。

この本のタイトル、「カブールの燕たち」の燕とはチャドリで全身を覆ったカブールの女性達を意味している。
タリバンなどのイスラム原理主義者達が支配する街では女性は、一人前の人として扱ってももらえないし、男女が人前で口を聞くことも、笑うことも手をつなぐことすら許されない。
要は家でじっとしていろ、というわけだ。

この本はタリバンを糾弾している。

欧米のジャーナリストがアフガンを取材してタリバンを糾弾することは、彼らの常識から言ってままあることだろう。
だが、この作者、アルジェリア生まれのイスラム教徒なのである。
イスラム教徒でも西欧的な高等教育を受けた人にしてみれば、同じイスラムでも原理主義者の方がキリスト教徒よりも遠い存在で、原理主義者がいるからこそイスラムそのものが忌み嫌われる、そういう意味で著者にとっては原理主義者は迷惑な存在なのかもしれない。

タリバン=悪、一般的に、世界的になにかそういう公式が刷り込まれている様に思えてならないが、当時のアフガンでカブールほど西欧的な空気を味わった町は別にして、ほどんどの町や村で望まれたことは何より、内戦の終結。
タリバンの台頭による治安の回復を何より喜んだのではないだろうか。
タリバンがあれだけ短期間にあの広いアフガニスタンという国の制圧範囲を広げられたのは何より地域地域で歓迎されたからに違いないのだと私は思う。

この原著が出版されたのが2002年。
アメリカによる空爆は既に2001年から始まっている。
執筆時は丁度、9.11の手前だったのかもしれないが、ウサマ・ビン・ラディンを匿っているのか?の問いかけにYESともNOとも応じなかっただけで、世界の敵の扱いを受けることになるタリバン達を敵たらしめるには同じイスラム教徒が書いた本書は大いに利用されたかもしれない。
「国際IMPACダブリン文学賞」などという賞の受賞もその一環と思えなくもない。

本の中にはそんな詳細記述はないが、あらためて振り返ってみるに、ソビエト侵攻前に大学に在学して、となると1978年より前。その後タリバンがカブールを治めるまで20年弱。

自由な大学を去ってからほぼ20年間もの長期に渡って、戦禍の中にいて尚、チャドリを拒否するだけの自由を追い求める気持ちを持ち続ける女性が存在し得るのか。
そして学生時代に男子学生を魅了した女性が20年経って尚、素顔をさらすことで男を魅了してしまうほどの魅力を持ち続けて来られるものだろうか。

ジェンダーフリーとは正反対のイスラム原理主義タリバン政権下での女性達を描いた話なのだが、存外、女性の強さを書いているも物語なのかもしれない。

カブールの燕たち   ヤスミナ・カドラ (著)  香川 由利子 (翻訳) <br />”  width=”60″ height=”90″></p>
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