カテゴリー: 帚木蓬生(ははきぎほうせい)

ハハギギホウセイ



日御子


志賀島で漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)と刻まれた金印が発見されたことは小中学校の教科書にも載っているぐらいなので、誰しも習ったことぐらいはある。

この物語、まさにその漢委奴國王の金印の話から始まり、その金印を授かるように努めた使譯(しえき)の一族の物語なのである。

倭の国各国には使譯(しえき)という職業の人が居て、皆、名字はアズミなのだという。アズミは安住であったり安曇であったり安潜であったり・・・いくつものアズミ家が存在するが、元は一つだったのではないか、と言われている。

使譯という職業、「通訳」のような存在なのだが、「通訳」としてしまうとあまりにも軽い。
倭の国においては漢の言葉を使えるのが彼らだけだ、というだけではなく、文字を知り、文章を表すことが出来るのも彼らの一族のみなのだ。
従って、国書や親書を認めるのも彼ら一族の仕事で、その出来次第で外交関係を築けるかどうか、の国運を背負う。
使節団が派遣される時の移動中は通訳兼添乗員のような存在であったりもするが、正使や副使よりも立場は低いとはいえ、交渉の実態においては全権大使のようなもの。

そんな重責を代々担い、日本国内にいくつもの国がある時代にあって、そのどの国でもその使譯という役割を担ったという一族はその当時のこの国のエリートの中のエリート一族と言えるかもしれない。
もちろん、そんな一族のが居たという史実はないのでフィクションなのだろうが。
唯一フィクションでないのが、「漢委奴国王」という金印の存在だ。

灰という名の有能な使譯が、那国王からの依頼で、漢の国王へ上奏しに行った時のことを孫に話して聞かせる。

旅先では驚くことばかりであったが、最後に賜った金印に刻印された文字が「漢委那国王」ではなく「漢委奴国王」になってしまっていることに後で気づき、自らの失態とばかりに嘆くが、文字が読めない国王に失望を与えては、と敢えて国王にも告げずに孫にのみ伝え、一生を終える。

その孫が伊都国という国の使譯として、5隻の船の使節団を率いて、壱岐国、対海国を経て韓の国に入り、楽浪郡を経て漢の都へと半年をかけた道のりが描かれる。

物語はそのひ孫の代・・と続いてはいくのだが、この旅のくだりにかなりの枚数を割いている。筆者はまるで自分で見て来たが如くに綴って行く。

祖父が驚いたのと同様に最も驚くのは、馬車という乗り物と「紙」。

紙を発明したのは、後漢時代の蔡倫という人だと、宮城谷氏の本にあった。
祖父が出会った国王は後漢を興した光武帝。
と、考えると、祖父の時代に紙があったかどうかはかなり微妙だ。

祖父はその馬車や紙を見て、百年後の倭国でもそんなものは出来ないだろうと感想を抱くが、その感想通り百年後でも出来ていない。

この時代とて、争い事や戦は数多あっただろう。
漢の国においての腐敗政治はこの後のこと。本格的な戦の時代の三国時代はこの後であるし、前漢以前のにも春秋時代という各国が戦争ばかりしていた時代はあった。
倭の国においてもこの物語にも描かれる通りに戦の時代へと突入する。

はるか後に人類は産業革命を経、またそのはるか後に情報革命を経るわけだげ、その後の現代とこの時代の人々と果たしてどちらが豊かだったのだろう。
各国各地域にはそれぞれの伝統の大元があり、守られ、自然の恵みも豊かである。
それより何より百年や二百年では揺らがない精神性を保い続けていることが何より現代より優れていると思えてならない。

日御子(ひみこ) 帚木蓬生(ははきぎほうせい) 著



水神(すいじん)


九州は久留米有馬藩の江南原と呼ばれる地域一帯。
筑後川と巨勢川という豊かな川水が側を流れながらも、台地であるために、川水は見事に迂回してしまう。

そのために農作物の育ちは常に悪く、お百姓さんは貧しく、常に飢えているような状態。
この本では今では滅多に使われない百姓という言葉が平気で使われている。
農家の人、農業を営む人、農民、確かにどの言葉に当て嵌めても、この時代を描く風景にはフィットしない。もし差別用語だとでもいう理由でこの言葉が消えつつあるのなら、ここではせめて彼らに敬意を込めて「お百姓さん」と記すようにしようか。

水飲み百姓という言葉があるが、この地域の人々は水汲み百姓(いや水汲みお百姓さんか?)と言っても過言ではないほどに、水の供給にかなりの労力を強いられる。

その最も極端なのが、打桶という過酷な労働。

筑後川の土手に二人の男が立ち、四間~五間という高さから桶を川へ落とし、わずかもこぼさずに川から水を汲み上げ、田畑へと繋がる溝へ流し込む。

1間が180cm程とすれば、7m~9mの高さから水を汲み上げていることになる。
しかもまだ皆が働き出す前から、働き終えて家へ帰る時間までその作業を続ける。

大雨でも降れば別だが、年がら年中、その作業を朝から晩まで、しかも一旦その成り手になると死ぬまで続けることとなる。

そんな途轍もない過酷な労働をしたところで、田畑に水が行き渡るどころか、ほんのおしめり程度の雨ほどの効果もない。

ただ、彼らが来る日も来る日も自分たちのために水を汲んでくれているその姿と「オイッサ エットナ。オイッサ エットナ」の響き渡る掛け声に励まされて、他のお百姓さん達は労働を続けている。

そんな過酷な状況を打破しようと動いた5人の庄屋。

この江南原に水を引くことはここに住む人たちの永年の夢である。

上流からなんとか水を引き込めないか、と水路を精緻な図面に起こした一人の庄屋。
それに意気投合した残り4人の庄屋。
内一人は美文家で、上流にての堰の構築についての藩への嘆願書をしたためる。

その嘆願書を読んだ普請奉行がとうとう5人の庄屋を城へ呼び、意見陳述をさせる。

藩は藩で財政赤字に苦しんでいることを城へ行く途中で知った彼らは、藩に資金を頼まず、自らの身代を投げ打って工事費にあてる決意を固める。

水飲み百姓は苦しんで田畑から実りをあげ、その実りの大半を庄屋が上前をはね、そこから年貢を納める、庄屋さんいうのは百姓であって百姓でない、いい御身分の様に考えられがちだ。
実際には中にはそういう例も多々あるのだろうが、おそらく大半はここに出て来る庄屋さん達のように、いかにお百姓さん達が飢えずに暮して行けるのか、を考える村長(むらおさ)的な存在ではなかっただろうか。
庄屋という稼業、お百姓さんに尊敬される存在で無ければ、お百姓さん達はその地を逃げ出して行ってしまう。

それにしても身代投げ打って、というのは凄い意気込みだ。

この五人の中でも気持ちは確かにそうだったかもしれないが、中にはまさかそこまで・・という気持ちの人も居たかもしれない。
城へ上がり、訴える内に、一人が言い出したら、皆、後へは引けないみたいな部分もあったのかもしれない。
それでも腹を据えてしまうのだ。

一旦言い出した以上は二言は無い。
武士ではないがその気概は、お役人たる武士をはるかに上回っている。

この工事の着工にあたっての決め手は、自らの命を投げ打つ覚悟、失敗すれば、すってんてんの丸裸になるばかりか、磔になっても構わない、という血判状である。

これを持って藩は工事着手を決める。

なんという意気込みなのだろう。

そして、自ら言い出したこととは言え、堰の工事現場には5本の磔台が高々とそびえ立つのだ。
一体全体何のためにそんなことまでするのだろう、と訝しむのだが、案外別の効果があったりする。
堰の工事に反対した庄屋たちが毎日それを目にするような場所にその磔台にあったのだ。まさか意図したわけでもないだろうが、反対した庄屋たちはそれを目にする度に自責の念と五庄屋に対する自責の念にかられて行くのだ。

筑後川という大きな川への堰工事という当時では途轍もない大工事であったろうに、地域三郡から参加したお百姓さんたちが皆、反対派も賛成派も競って溝工事を進めて行く。
水が来ることを如何に切望していたか、嫌々借り出された賦役とは意味が違うのだ。地元の人ばかりではない。他所からの助っ人組も五庄屋の気概を粋に受け止めたのか、全員志気が落ちない。

この本に書かかれていることは元は史実だったのだろう。
どこからどこまでが史実なのかは定かではない。
口語で語っているところや、応援してくれる老武士などは架空かもしれない。
では嘆願書の文章やらはどうなのだろう。
作者によるあとがきもないし、かなりの文献をあさって書いたのであろうに、参考文献の一覧もないので、わかりかねるが、この地域のお百姓さんの暮らしぶり、食べもの・・至る所、まさに取材でもしてきたかの様な信憑性がある。

現代が先人たちの労苦の遺産の上で成り立っている事は承知している。
その先人たちとは名を為した人たちばかりではない。
この登場人物たちは、幕末や明治維新で活躍したようなお国のために何かを為そうとしたわけではない。

自らの領内のお百姓さんやその子々孫々のためを思って自らを投げ出し、結果周辺三郡の皆を水で潤わせた。

著者はよくぞこの方々を発掘してくださったものだ。
著者の労苦にも感謝!

水神(上・下)卷  帚木蓬生著 新潮社 第29回 新田次郎文学賞