カテゴリー: 城山三郎

シロヤマサブロウ



男子の本懐 (故城山三郎氏を偲んで)


頑固一徹。やり抜くと言ったら何が何でもやり抜く男達。

言わずと知れた浜口雄幸と井上準之助の話である。

城山三郎の描く浜口雄幸の生き方は不器用そのものである。

学生時代から寡黙な男であったが一度こうだと言い出したらその説を絶対に曲げない。
文官登用試験の際にも試験管ともやり合い説を曲げなかった。
それでも試験には合格し大蔵省へ。

上司に対して説を曲げないでは官僚の世界で出世は望めないだろう。
浜口雄幸が延々と地方で冷や飯を食わされていたのに比べると、日銀へ就職した井上準之助の方は自己流を貫き、赴任先の各地でも斬新で効率の良さを求め、次々と改革を成し遂げて行く。

仕事が終れば3時であろうがさっさと帰る事を奨励する。
上司の言い分を聞かないという意味ではこちらも同様なのだが、浜口とは違い、出世街道を順風満帆に進んで行く。

上にも下にも厳しい人で、部下に言う口ぐせは
「ワンシング・ワンス(One thing, once.)」。
つまり「二度も同じ事を言わせるな」という意であるが
「一回一回が勝負である。もっと集中しろ」という意も込められているのだという。

井上準之助の日銀総裁時代の秘書でそうした叱咤激励を受けた人の中に「一万田尚登」という名前があったので驚いた。
一万田尚登と言えば日銀総裁イコール一万田総裁と言われるほどに長期間総裁を勤めた人で「一万田法王」とも呼ばれていた人ではないか。

何気にそういう人を怒鳴られる秘書として登場させてくるのだから城山三郎の作品は油断も隙もあったものではない。
司馬遼太郎なら必ずや解説文を入れているであろう箇所を何事も無く書いてあるのでうっかり読み流してしまいそうになる。

そういう意味ではこの浜口内閣の閣僚には「又さん」こと小泉又次郎が逓信大臣として入閣している事も何気に書かれている。
この大衆政治家こそ小泉純一郎前首相の祖父にあたる人である。
もちろん『男子の本懐』が書かれた頃には、小泉純一郎が後首相になるなどとは誰も思ってはいなかったであろうから仕方はあるまいが。

井上準之助にとってはニューヨーク駐在を命じられた1年半ほどが唯一の挫折の時代だろうか。
ニューヨーク駐在時代にこまめに日本の妻へ泣き言の手紙を書いている。
そんな私信が自分の死後何年も経ってから世に出てしまうなどとは井上準之助も全く想像もしていなかったに違いない。
それほどに女々しい手紙なのである。

そういう挫折時代はあったものの概ね、言いたい事を言い、やりたい事をやりたい様にやりながらも陽のあたる道を維持している。

浜口雄幸首相と井上準之助蔵相が生命を賭して成し遂げようとしたのが「金解禁」と「緊縮財政」である。

井上準之助に関しては「金解禁」の必要性をかなりの早い段階から推進すべきという立場を取って来ている。
大正時代の第一次大戦による一時的な好景気についてもその反動や必ず来る、しかもかなり長期的に、と先を見通している。

井上準之助がバブル時代に生きていたならその崩壊後を必ず見通していたのではないだろうか。
井上準之助が雄弁に語り、批判が出たものを浜口雄幸が強面の顔で一歩も譲らぬ、という迫力で一手にその批判を吸収する。二人の名コンビにて不可能を可能にならしめている。
この緊縮政策の中で官僚の俸給の減俸を決定しようとする局面がある。
年俸1200円   据え置き
年俸1400円   6分減
年俸1600円   7分減
年俸1800円   8分減
年俸2000円以上 1割減
この当時の1000円を現在の金額いくら、と単純な置き換えには無理があるだろうが、少なくとも減俸対象となる年俸1400円は当時であれば高賃金と言って差し支えは無かろう。
大卒の就業率が5割から3割と言われるほどの未曾有の不景気時代である。
国民が明日の職にさえ事欠くご時世に公僕であるはずの官僚ばかりが好景気時代の高給のままでは、というごく当たり前の発想でマスコミこぞって絶賛すると思いきや、どうであろう。起こった事態は全くその反対。
マスコミはこぞって反対意見を繰り出す。

「俸給生活者への弾圧」だの「家賃が払えず家を追い出される・・」だのとはいったいどういう了見での反対意見だったのか。
どんな反対意見があろうと、成し遂げるのが浜口・井上のやり方であるが、金解禁という大事の前の小事で躓く訳にはいかない。
浜口雄幸が矛を収める形でこの件は一旦取り止めとなる。

しかし大新聞の無定見というもの、ここに極まれリでは無いのか。
この浜口雄幸はこの政権を引き受けるにあたり、命を投げ出す覚悟を決め、それは今日の様な言葉遊びの類では無く、実際に自分が死に到った後の事も家族に言い含めている。
そして井上準之助を蔵相として招聘するに当ってもその覚悟のほどを説き、命がけの覚悟を求め、井上もそれに応えた。
命を投げ出し一身を国に捧げた男達の英断に対し、世の中のサラリーマン全員が給料を10分の1にでもされてしまう様な誤解を招く様ないい加減な報道の仕方。
それは非礼を通り越して害悪でしかないだろう。

浜口雄幸と井上準之助は艱難辛苦を乗り越え金解禁を成し遂げる。
だが国難がそれで去った訳では無い。
世界情勢が最悪の時代に宰相になった人と言っても過言では無い。

ウォール街の株の暴落である。ウォール街の暴落は日本の不景気どころの騒ぎでは済まない。
後の世界大恐慌にまで繋がる。
財政緊縮、そして軍縮もこの内閣に課せられた大きな課題である。
時に英米との海軍軍縮会議。

軍縮案を受け入れた政府に対し、当時の野党である政友会の犬養毅はこの時初めて「統帥権の干犯」という言葉を用いて浜口内閣を攻撃する。
全く皮肉なものである。
自分の使った「統帥権の干犯」という言葉が後に自分にはね返って来てしまうのだから。

浜口雄幸は金解禁を成し遂げ、公債を一切発行せず、軍縮、そして4度に及ぶ緊縮予算を成立させた。
料亭政治も根回し政治も一切行わず、全て真正面から。
東京駅にて凶弾に倒れた時にも「男子の本懐也」は本人の言葉通り本音であったかもしれない。

だが、片やの井上準之助の方はどうだろう。
浜口が倒れた後も井上蔵相の行財政改革は手加減無く邁進する。が、後ろ盾の浜口が居ない。全く孤立無援の戦いを井上準之助は強いられるのである。

内閣総辞職後、後継には政友会の犬養毅が首相に蔵相が高橋是清が就任。
新内閣発足と同時に行った事は金解禁の正反対。金輸出再禁止である。
井上準之助はどれほど口惜しかった事だろう。

今日でも浜口・井上の政策が金解禁や緊縮財政が深刻な不況を招いた失政で、犬養・高橋金輸出の再禁止と日銀の国債引き受けが不況から脱出させた善政の様な評があるが果たしてそうだろうか。

浜口・井上が行おうとしていた金本位制度に立ち戻るという事は王道で、歳入が減っても無暗に公債を発行しないのも王道。後世にその借金を肩代わりさせるなどという無責任な政策では無く、膿みを出しきって健全になろうという政策である。

金輸出の再禁止政策で財閥は大喜びしたそうである。
城山三郎はこう表現している。
「売られた円。買われたドル。売られた日本。買われたアメリカ」と。
物価は上昇する。賃金は上がらない。
財閥は肥え太る。それを持ってその経済政策は成功だったと言うのだろうか。
後に片や犬養毅が五・一五事件で片や高橋是清が二・二六事件で亡くなるが、その青年将校・下士官達の反乱の底辺には貧困という問題を抱えていたからではなかったか。

井上準之助も浜口雄幸同様に凶弾に倒れるのであるが、浜口は成し遂げたという達成感の直後だっただけに「本懐」と言えるかもしれないが、井上準之助にしてみればまだまだこれからという気持ちだったのではないだろうか。

いずれにしてもこの二人の何が何でもやり抜く男達を昭和の初期に失った事はその後の昭和の日本史を大きく、それも致命的なほどに変えてしまった様な気がしてならない。

浜口雄幸は明治生まれでは最初の宰相。という事はそれまでの日本を引っ張って来たのは江戸時代・幕末の人達という事になるではないか。
時は今、戦後生まれの初の宰相の時代である。
日本の借金は767兆円 一世帯あたり1630万(平成19年4月17現在日本の借金時計サイトより引用)というトンでも無い負債を抱えている。
全て過去の政治家が借金を次世代へ次世代へと繰り延べて来た結果である。
浜口雄幸の時代ならずも今の時代も行財政改革と言われて久しい。

惜しい事に城山三郎は亡き人となったが、生きていたら戦後生まれの今後の宰相達をどのように描いて行ったのであろうか。
もはや我々の目で見極めるしかあるまい。

男子の本懐  城山三郎 著



乗取り (故城山三郎氏を偲んで)


城山三郎氏の『乗取り』に登場する青井文麿も明石屋にも実在のモデルが存在する。
青井文麿なる人物が日本橋の百貨店明石屋の発行済株式総数の四分の一を買い占める。
百貨店側が株式を議決権行使停止の仮処分で青井の持ち株を塩漬けにし、長期化させる事で青井の資金の行き詰まりを画策する。
一時は同盟を組んだ人との持ち株を併せると過半数となり、経営権を握れるところまで行くが、同盟を組んだ人が株を売却してしまう。
初回の株主総会では議長(会社側は)提案審議を延期し流会させてしまう。
再開された総会は会社側で行っている総会と全く同じ時間に青井も開催し、会社側の提案を全て否決。新役員を選出する。
これを会社側は提訴し、法定闘争へと突入。
長期化する事で青井の資金枯れも限界に。
最終的には青井株は電鉄系の大物乗っ取り屋に渡り、明石屋は電鉄系の大物乗っ取り屋に乗っ取られる。
実在のモデルが誰で百貨店がどこなのかは既に明らかにされている。

事件の流れは横井秀樹氏の白木屋乗っ取り事件の史実そのままなのだそうだ。
だが、これはモデルがあったというだけでドキュメンタリーでは無い。
あくまで小説である。
青井の秘書は当初は青井のやり方に途惑うが、そのバイタリティーに感銘を受け、スタンダールの『赤と黒』に登場するジュリアン・ソレルと青井をかぶせてしまう。
既成社会が徒党を組んで立ち向かって来る中で最後までひとり敢然と戦っている、と。

城山三郎は青井という人を絶賛している訳では無い。
乗っ取りが出来るほどになるまでの青井の暗い過去をそれとなくにおわせている。
金も人脈も何も無いところから企業を買収出来るほどの資金を持てる様になるにはそれなりの悪どいやり方をせねばならなかったという事なのだろう。頭金だけ現金で支払ってその後はいつとも知れぬ長期の手形払い、そんなやり方で商売を拡張し、利用出来る人間には擦り寄り利用し尽くす。そして利用し尽くした後はお払い箱。
青井文太と言う名前でさえ「文麿」などと貴族や華族の様な名前にするあたりをみてもいかに青井がペテン的なやり方ののし上がって来たのかをにおわせている。
ただ、この青井という男の持つバイタリティー、そしてなりよりも粘り強さは驚嘆に値する。
この人に会う事、ましてや味方に付ける事など絶対に無理であろう、と他の人間が思っても毎日朝に晩にと日参を続ける。今のご時世ではオートロックのマンションなど当たり前なのでこういう日参するという粘りは不向きだろうがこの舞台となる時代では日本家屋が普通の時代なのだろうし、日参する仕方というものをこの青井は心得ていたのだろう。そして何か人を引きつける魅力を持っていたはずである。最終的には味方にしてしまうのだから。

城山三郎はもちろん乗っ取り屋を美化する目的で書いたのでは無いだろう。
城山三郎がテーマにあげるのは既成社会にあぐらをかいて座っている連中とそれに立ち向かう人の姿。

そして城山三郎が何より嫌うのは、この明石屋の役員達にみられるような茶坊主的な生き方なのではないだろうか。
そして、そういう人達はいつの時代にも存在する。



鼠 (故城山三郎氏を偲んで)


3月22日、城山三郎氏が亡くなられました。
私にとって戦国時代から幕末、明治までの歴史の師が司馬遼太郎氏なら昭和史の師は城山三郎氏(以下敬称略)に他ならない。
歴史小説の司馬遼太郎と経済小説の城山三郎では畑が違うだろう、と思われる向きかもしれない。
司馬遼太郎が実在の人物をそのままの名前で書いていたのに対し、城山三郎の作品の大半は、実在のモデルはこの人だ、とほぼ誰でも判っていながらも架空の人物・企業として描いている。
書かれる方も同じ昭和のその時代を生きている人で、その企業も現存する以上、それは当然の配慮だろう。
いずれも学校で教えてもらえない日本の歴史、近代史、現代史を懇切丁寧に教えてもらったという意味では両者共自分にとっての師である事に違いは無い。

城山三郎の作品群は正に昭和そのもの、と言っても過言では無いだろう。
昭和の初期では『男子の本懐』で浜口雄幸、井上準之助を描き、戦中・敗戦まででは『大義の末』がある。
『大義の末』では軍神杉本中佐の『大義』「天皇のために身を捧げることが日本人の生き方である」という戦前の軍国少年のマニュアルの様な本に傾倒した学生の敗戦後のわだかまり、こだわりを描く。
著者そのものも『大義』を読んでいた、という事なのでたぶんに自身の思いを重ねていたのかもしれない。
敗戦の尻拭いの様な東京裁判で唯一文官でA級戦犯となった広田弘毅を描く『落日燃ゆ』。
その後の復興時は『価格破壊』が一代にして日本のトップスーパーを興した起業者を描いたかと思うと、これから高度成長へと向かう日本の牽引車となるべく海外の車に負けないものを、と取り組む自動車メーカーと下請け企業の悲哀を『勇者は語らず』で描き、『乗取り』はまさに昨今流行りのM&Aの先駆けの様な乗っ取り屋を描く。
そして時代背景は違うが、平成の今、丁度団塊の世代が定年退職に向かおうとするこの今の時期のためにある様な『毎日が日曜日』。

実在の人物を実名で描いているのは『鼠』、『男子の本懐』、『落日燃ゆ』・・とわずかであるが、これらの登場人物は寡黙を美とするところがあるのか、いずれも本人は本懐かもしれないが、はたから見れば不幸な結末を迎えている。

この追悼文のタイトルに『鼠』を持って来たのは、たまたま私が城山三郎を最初に読んだのが、この本だったから、という事になるだろうか。亡くなった、と聞いて一番先に読みたくなったのもやはりこの『鼠』だった。

『鼠』という作品はジャンルで言えば小説ではない。ドキュメンタリーそのものである。
そして大正時代が舞台である。
『鼠』を読むまで「鈴木商店」という会社の存在など全く知らなかった。
「鈴木商店」なんていう商店街の一店舗の様な名前の会社が一時は三井・三菱も凌ぐ日本のトップ商社だったなどと俄かに言われてもそんな事はなかなか信じがたいものがあるだろう。
「鈴木商店」は単なる一商社だった訳では無く、製鋼、金属精錬、造船、人絹、毛織、油脂工業、倉庫、海運、鉱山、樟脳、ビール、製糖、製粉、ゴム、・・・当時のありとあらゆる日本の主たる製造業を傘下とする大コングロマリットだったなどと言われて、素直に信じられるだろうか。
その時代の主力産業の大半を手掛けていた大企業なのだ。
「鈴木商店」を差配していたのは、金子直吉という大番頭。
質実剛健にして機を見るに敏。
自らの才覚に絶大な自信を持つ負けず嫌いの性格。
そして丁稚上がり故か、日曜日というものが無い。

歴史とはなんと残酷なのか。これほどの大企業でありながら、今、というよりこれが書かれた昭和の時代であっても「鈴木商店」の名は知られる事も無かったし、教科書で教えられる事もない。
歴史に潰された、もしくは埋められた存在と言ってもいいだろう。

大正の米騒動にて米を買い占めていたという理由で焼き討ちに合う。
当時のメディア、即ち大新聞だが、この「鈴木商店」をこれでもか、これでもか、というほどに悪徳商人として叩いている。
それに対して金子直吉は、「悪い事をしていない事はいずれ皆がわかってくれる」と新聞批判などには目もくれない。

当時の事を書いた史書にも尽く「鈴木商店」が買占めをした悪徳商人として書かれていながら、「鈴木商店」を知るわずかな生き残りの人達は「あぁ、なんていい会社だったんだろう」と語る。
そのギャップを疑問に感じた城山三郎の徹底した取材活動が始まる。
その史実の中で証言している人、一人一人に当時の事を取材していく。
証言者の口からは「なんせ、みんなが悪いって言うんだから、悪い事をやっていたんだろ」程度の事で、事実の「鈴木商店」の悪徳、背徳の事実は全く浮かび上がらない。

そしてそれらの偽りの証言を一つ残らず見事に覆し、大新聞の過剰な誤報についても論破し、「鈴木商店」の名誉を挽回させるのである。
「鈴木商店」は米の買占めをするどころか、当時高騰しく米を新聞が煽り立て、皆が買いだめをする最中、朝鮮米、外米を輸入して安い価格の米を流通させようと言う世論とは全く逆の事をしていた。
「鈴木商店」即ち金子直吉には米を買い占めて庶民の暮らしを食い物にしようなどと言う様なしみったれた気持ちはさらさら無く、それよりももっと大きなところへ目を向けて活動していた。
丁度この頃、英米が鉄輸出禁止令を発令。
日本に鉄が入って来ない事は日本にとって死活問題。
大統領へ直訴をしたためるが相手にされず。アメリカ政府代表として来日していたモリス代表に船舶を売りつけ、支払いは鉄にせよ、と交渉する。
まだまだ弱体日本が欧米相手に力を付けるという国家の事しか頭に無かった。
そんな「鈴木商店」をくる日もくる日も某大新聞はやり玉にあげ、悪徳商人呼ばわりをして罵る。
「鈴木商店焼き討ち」は新聞が火をつけた様なものである。あとは群集心理。
皆が「鈴木をつぶせ」とばかりに襲い掛かる。
マスコミ=新聞は当時の寺内内閣を叩くのが目的で「鈴木商店」は言わばおまけの様なものだったのかもしれないが、とんだ煽りである。
戦前日本には言論の自由の無い民主主義としては未開の国だったとのたまう向きもあるが、この一事を見てもわかる通り、言論の自由が無いどころの話では無い。
自由を通り越してすらいる。火の無い所に煙を立てて一企業を悪徳商人扱いにし、民衆を煽って暴徒化させる。そこまでの力を持っていたのである。

「焼き討ち」即倒産では無く、その後も「鈴木商店」は存続するのだが、金子直吉の銀行嫌いも手伝って、最後は解体を余儀なくされる。

「鈴木商店」は跡形も無く消え去った様で、実際には神戸製鋼、石川島播磨重工、サッポロビール、日商岩井、帝人、昭和シェル、豊年製油・・など日本を代表する企業にその血脈は連綿と流れ今も生き続けている。

しかし、この『鼠』というタイトルはどうなんだ。
いかにも米蔵の中で米でも齧っていそうなタイトルではないか。

このタイトル、金子直吉の白鼠という俳号からか。
「初夢や太閤秀吉奈翁(ナポレオン) 白鼠」
この俳句とも言えない様な句は、もちろん焼き討ち前のもの。
「落人の身を窄め行時雨哉」
鈴木商店解体後、住み慣れた家からも追われる時のもの。

『鼠』というタイトルはこの俳号からのものでは無い。
直吉は天下国家を望みながら本質において生涯勤労者だった。
「鼠」の様に走り廻らなければ生きて居れぬ人間だった。

城山三郎は取材に次ぐ取材の結果「鈴木商店」の名誉を挽回させたが、また一方の冷静な観察眼では「鼠」であるが故に金子直吉も「鈴木商店」を倒した一人だった、と捉えているのである。