ドラゴンランスマーガレット・ワイス、トレーシー・ヒックマン著
森と自然を愛し、容姿端麗で1000歳まで生きる「エルフ」。
背は低いが勇猛果敢。細工物、建造物を作らせたら天下一品の「ドワーフ」。
邪悪で醜くいつも悪役の「ゴブリン」。
あまりにも有名な「指輪物語」(映画名では「ロード・オブ・ザ・リング」)や映画化が実現した「エラゴン」、世界2000万部とも言われる「アイスウィンド・サーガ」・・・・この手のファンタジー物語では必ず登場するこの手の種族。
もうあまりにも頻繁に登場するので、あたかもそういう種族が現存するのではないか、と思えて来てしまうほどです。
ドラゴンランスという本、注釈というものがついています。「注釈はネタばれになる事が書かれているので、6巻全てを読んだ後にお読みください」というコメント付きで。
6巻全部読んだ後で注釈だけを読もうとしてもそこには何頁のどの部分の注釈かがわからない。
従って最初から二度読みをしなさい、と言われている様なものなのです。
注釈を読んでいてわかるのですが、この物語はこのマーガレット・ワイスとトレーシー・ヒックマンの二人だけで書かれたものではない、という事。
チームの人達が皆でキャラクターを作っている様なのです。
マーガレット・ワイスなどは主人公のハーフエルフのタニスの性格がわからない、とさえ言っています。作者が生み出すべき個性を作者がわからない、とはどういう事なのでしょう。
また、この注釈ではそういう裏話だけならまだしも、本来本筋のストーリーの中に書かれていてしかるべき内容の様な話がいくつも書かれています。
それは何故なのか。注釈も読んで行くうちにだんだんと状況が飲み込めて来ます。
ドラゴンランスという世界はこの物語と併行してあるいはこれに先行して書かれた複数の本やドラゴンランスのゲームストーリーという制約の中で書かれている。
二人ともTSRという会社に勤める人でその会社の会社員でこそあれ、作家でもなんでもなかった。(その当時は)出版化を決めるのも会社。
後に、トレーシー・ヒックマンはドラゴンランスはゲームストーリーの制約に縛られずに書く事が出来たと語っていますが、ある種のクリン(ドラゴンランスの世界で言うところの地球に相当する)上発生した歴史というか、過去の時代背景などは既にあるものとしてその中で自由に書けた、という事ではないでしょうか。
例えば「信長の亡き後に秀吉が天下を取り、秀吉亡き後に家康が天下を取った」という様な、歴史の事実は曲げられないにしてもその中で暗躍した忍者を描くのも信長、秀吉、光秀、家康そのものをどのような人間像に描くのかは作者の自由。しかしながら、天下は信長、秀吉、家康と受け継がれて行くこの時代背景そのものには手を入れられないみたいな・・・・。
ちなみに後に出版されている「ドラゴンランス伝説」邦訳全6巻ではそのクリンの歴史そのものに挑戦しようという試みがなされている様にも思えます。
話の途中でパラダインの僧侶(キリスト教の神父様に相当するのでしょうか、はたまた牧師様に相当するのでしょうか)エリスタンというキャラクターが登場します。
注釈ではマーガレット・ワイスはこのエリスタンを殺してもいいか?とヒックマン氏に相談しているのですが、ヒックマン氏は「とんでもない。神聖なパラダインの僧侶を殺してしまうなんて・・」と猛烈に反対しています。おそらくですが、ヒックマンという人かなり敬虔なクリスチャンなのかもしれません。
読む立場からしてもこの神聖なパラダインの僧侶エリスタンはなんとも存在感も希薄で、なんとも胡散臭い。おそらく次の巻あたりで死んでしまうのでは?と思ったぐらいですから、マーガレットさんのご意見ごもっともと思えてしまいます。
もっとも半分はマーガレットさんが書いている訳で、敢えてエリスタン僧侶の存在感を希薄に描いたのは彼女なのかもしれませんが・・。
そもそもゴールドムーンという癒し人が存在するのですから、存在感は当然希薄になるでしょう。
ゴールドムーンという人は怪我人たちどころに治してしまうし、死にかけている人も救ってしまうのですから、キリスト教でいえばもうほとんどイエス・キリストの様な存在。
パラダインの信者どころかゴールドムーン教の信者が出て来てもおかしくは無い様なものです。
ゴールドムーンがいる限り味方には死者は出ないのだろうと思いきや、ゴールドムーンは途中から物語の中心から去って行き、脱落して英雄死を遂げるキャラクターも出て来ます。
これにも注釈があって、仲間内から一人も死者が出ないのもおかしいだろう、というチーム内の話合いがあったらしいです。
但し、英雄スタームの死については別途、その後の「ドラゴンランス伝説」だったか、さらにその続きの「ドラゴンランス セカンドジェネレーション」の注釈だったか忘れましたが、筆者はスタームの死は無くてはならない大事なストーリーだったと語っています。
注釈は、そういう楽屋話だけならまだいいのですが、それをあーた言ってしまっては・・という箇所が多々あるのです。
それは読み手にゆだねるべきところを何故そこまで饒舌に語ってしまうかなぁ、という首を傾げたくなる箇所も存在します。
従って私の結論としては注釈は要らないと思うのであります。
読む読まないは個人の自由ですが無しで読んだ方が素直にストーリーに突入出来るでしょう。
ドラゴンランスが「ドラゴン=竜、ランス=槍」つまり「竜と戦うための槍」がどんな役割りを果たすのかと期待しましたが、あまりそこにはこだわる必要は無さそうです。
ドラゴンランスというネーミングの世界が既に出来上がっているのですね。
話の筋としてはタニス、キャラモン、レイストリン、ローラナ、スターム、フリント、タッスル、ゴールドムーン、リヴァーウィンド・・・といった面々が暗黒の女王タキシスとその配下のドラゴン卿、更にその配下のドラコニアン、ゴブリンと戦いながら、暗黒の支配から世界を救おうとする訳なのですが、いつもの事ながらこの手の物語につきものなのが、暗黒、闇、邪 VS 光、善、正義 という構図。
レイストリンという魔法使いは心のどこかにいつも闇と病みを抱えている様なキャラクターでその人気が非常に高かったと作者は驚いていましたが、この人気はわかる様な気がします。多くの読者は勧善懲悪の単純に飽きて来ているのでしょう。
この物語、ドラゴンランスの続編のドラゴンランス伝説、そしてセカンドゼネレーション(息子達の世代が出て来ます)、夏の炎の竜・・魂の戦争・・喪われた星の竜・・・と次々と続いて行くのですが、既に続編の時点で、ヒックマン氏をもう敬虔なクリスチャンとは思わなくなるでしょうし、闇VS光ではなくなって来ます。
以前に書かれたものを含めるといくらでも膨れ上がってしまうこのドラゴンランスという物語の数々。もう終わりが無いのでは?とも思えてきます。
地球がある限り、世界史に終わりが無い様にクリンの世界にも終わりが無いという事なのでしょうか。
どの本にも全世界5000万部という帯がありました。
ドラゴンランスの一巻目が5000万部だとして全6巻、更に続編・続編も5000万部か、一巻目を無事に読んでしまえば、自ずからそうなるかもしれません。
一巻目の最初からぐいぐいと引っ張るタイプの読み物ではありませんし、なんせ最初は名前を覚えるだけでも大変。
同じ人物でも「タニス」と書いたり「ハーフエルフ」と書いたり、また「スターム」と書いたり「スタームブライトブレード」と書いたり「ソラムニア騎士」だったり「騎士殿」だったり。他にもそんな表現が一杯。
まぁそのあたりを乗り切れば後は一気に全6巻、また次の全6巻・・と行ってしまうのではないでしょうか。
さて冒頭の話に戻りますが、エルフあり、ドアーフあり、ゴブリンあり、・・あれ?
「ロード・オブ・ザ・リング」で活躍したホビット族はどこへ行ったのでしょうか。
ホビットは好奇心旺盛な種族なのですが、ちょっと個性として物足らないと言う事なのでしょう。
ドラゴンランスの世界では新たにケンダー族、ノーム族が登場します。
ケンダーの好奇心の旺盛さはホビットをはるかに上回り、死ぬ事すら冒険の一つと考えている。
また錠前破りの天才でスリの天才でもある。他人の所有品、貴重品も大切に自分の小袋に仕舞い込んでしまう。
ノームもケンダーに負けず劣らず好奇心旺盛で早口言葉の天才。発明の天才。
後続の後続あたりで実はノームもケンダーも同じ種族から分かれたという事実が明らかになる。
この物語、レイストリンが人気だったそうですが、私は陽気なケンダーのタッスルホフがこの終わり無き物語の中で一番好きなキャラクターでした。