カテゴリー: ジェフリー・アーチャー

ジェフリーアーチャー



死もまた我等なり


クリフトン年代記の第二部。

第一部の「時のみぞ知る」では、貧しい家庭で育ったハリーがオックスフォード大学に入学し、グラマー・スクール時代から親友だったジャイルズ(彼はバリントン海運という大企業のオーナー家の御曹司)の妹エマと愛し合い、結婚直前まで行くのだが、ハリーの母親とジャイルズの父、ヒューゴー・バリントンの間に生まれたのが自分かもしれないことが発覚し、結婚を断念してアメリカ行きの貨物船に乗る。
その後、貨物船はドイツのUボートの魚雷で沈没。
ハリーは生き残るが貨物船で一緒だったアメリカ人のブラッドショーを名乗る決意をする。
ところがブラッドショーは逃亡兵の上、殺人の容疑者だったために上陸と同時に逮捕。
ここまでが第一部。

かなり気を持たせたものだ。
まさか、主人公をいきなり刑務所に入れてしまうのか?というところで一部が終わるので否応なく二部を読むことになる。
そしてそのまさかで、主人公はいきなり刑務所に入れてしまうのだった。

それでも優秀な彼は刑務所でも図書係として卓越した能力を刑務所の所長に認められる。
やがてその刑務所で送った生活を綴った日記が他人の手によってベストセラーとなる。
エマはその日記を読み、ハリーが生きていることを確信する。

また、友人のジャイルズは本国英国軍の士官として前線で。
方やハリーは米軍の一員として、こちらも命がけの活躍をする。

この二部ではこのシリーズで唯一で最悪の悪役であるヒューゴー・バリントンも終焉を迎えるので、一応物語としては完結させてもいいだろうに、上下巻を終えて尚、今後のくすぶりの種を残したままの終わり方をする。

それにしてもこのヒューゴー・バリントンという人、父も母も元妻も息子も娘も親戚一同揃って、悪役のあの字も無いような健全な一家の中に居ながら、たった一人だけ小物で臆病者で悪知恵しか働かない。
実際に悪知恵どころか悪事に手を染める。
どうにも一人だけ浮きすぎている。

ハリーの血筋を問題とするよりも、ヒューゴーの血筋を調べた方がいいんじゃないかと思えてしまう。

いずれにしろ、第一部上下で完結せず、第二部上下でも完結しなかったクリフトン年代記、またまた第三部待ちということに・・・・・。

死もまた我等なり  ジェフリー・アーチャー 著



時のみぞ知る


イギリスの港町のごくごく貧しい家庭で育ったハリーという少年。
港町をほっつき歩くことが好きでなかなか学校へと足が向かなかったハリーだが、 オールド・ジャック・ターという謎の老人に出会ってから、彼の元で好奇心を旺盛に勉強することとなる。
勉強も聖歌隊での歌も高く評価され、お金持ちの子弟しか入れないような学校へと進学し、寄宿をする。

ハリーの進学の陰には母親の涙ぐましいほどの努力があったわけだが、彼女は努力だけの人では無かった。実に才能豊かな女性だったのだ。

戦争で亡くなったと聞かされていた父親についての真実が、だんだんと明らかになって行く。

富裕層の息子達からいじめや嫌がらせを受ける中、同じ大富豪の御曹司ながら彼をかばってくれ、家にまで招待してくれる友人。
その友人の家族の中でも何故かその父親だけがハリーに冷たい。

そんなことの理由もやがて明らかになっていく。

ジェフェリー・アーチャーが書いた「全英1位ベストセラー」と聞いて、久々にジェフェリー・アーチャーの長編を味わおうと思ったが、なんと上・下巻を読み終えてもまだまだ物語は序の口といったところ。

クリフトン年代記 第一部 とあるので、続きものであることは覚悟していたが、それでも上巻・下巻とたっぷり枚数を使っているんだから、それなりに「時のみぞ知る」で完結はして欲しかった。

クリフトン年代記 はさらに別のタイトルで続いて行く。

時のみぞ知る(上): クリフトン年代記 第1部 ジェフリー アーチャー (著)  Jeffrey Archer (原著)  戸田 裕之 (翻訳)



チェルシー・テラスへの道


ジェフリー・アーチャーの書くサクセスストーリーです。
ロンドンの下町で祖父が手押車で野菜を売る。それを毎日手伝い、祖父の手ほどきを受けながら子供ながらに一人前の信頼される手押車の野菜売りになって行くチャーリー。
そのチャーリーがチェルシー・テラスで店を構え、そのチェルシー・テラスでどんどん店を増やして行く。

ジェフリー・アーチャーのサクセスストリーはアメリカを舞台にしたものが多いのですがこの物語はアーチャー氏の本来の母国である英国が舞台です。

この本、読む人の視点によって複数の主題を持っているように思えます。

起業をし、会社を大きくというところに視点を当てる人には、チャーリーのあの商売に対するバイタリティや、目のつけどころの違いに興味を持つでしょう。
他の人と同じものを同じ風景を見たてとしても片や漫然と見ている。
片やチャーリーのように常に何か商売に活かせないのか、という目で見ること違い。
また毎朝四時に起きて誰よりも早く仕事を開始するチャーリーの姿。

不動産的な見地から商売を見る人にはチャーリーはどう映ったのでしょうか。

主婦の店ダイエーは千林の商店街の露天から始まったといわれます。
でもダイエーを興した中内氏は千林の商店街こと如くを買い占めようなどとはとはしませんでした。
あっちこっちにチェーン店を増やしていった。
チャーリーは何ゆえ、チェルシー・テラスの店を全て買い取ろうとしたのでしょうか。
他の場所であればいくらでも買えたでしょうに。

足の無い時代だったから、自分の足を運べる範囲で目を光らそうという意思だったのか。それとも、自分の生まれ育った下町と比較してチェルシー・テラスという場所は特別な意味があったのか。どうも後者のような気がしますが、それゆえに高い買い物をしてしまうこともしばしばです。

愛国心というものに主題を見出した人もいるでしょう。
いざ、イギリスが戦争に参戦したとなると、大好きな商売を放り投げて志願して従軍してしまう。
一度目は手押車の商売がようやく順調になって顧客もついた時点での第一次大戦。
二度目はチェルシー・テラスでの商売がさぁこれからと言う時期で、もう第一線で戦うことすら危ういような年齢になってからの第二次大戦への志願。

アメリカの大統領選でも候補者に徴兵を回避した事実などがあると、その致命傷は女性問題の発覚などよりもはるかに大きいと言われます。選挙民がその事を何より重く見ているということなのでしょう。

今回、軍歴のないオバマが軍歴のあるマケインに大勝したのはかなり異例なことで、ブッシュのイラク政策への批判の意味もあるのでしょうが、歴史は変りつつあるということでしょうか。
いずれにしても戦後日本ではほとんど考えられないことではありますが。

また、経営からの身の引き方という視点もあるでしょう。
店や会社が大きくなって行くにつれ、もはや自分だけの会社では無くなり、取締役会が経営方針を握って行く。
行く末は誰かに経営そのものも任せて行くという当然と言えば当然の話ながら、手押車で我が店を築いたチャーリーには違和感があります。

一代で企業を興した人にはいろいろあります。
本田総一郎のようにさっさと引退しておいて、大好きな車作りをレーシンングの車作りに発揮して行ったような人もいれば、なかなか第一線から離れられずにバブル崩壊で散った人・・・。

そしてなんと言ってももう一つの視点はアーチャー氏の物語に良く登場する敵の存在という視点。
執念深く恨み、憎み、徹底的に邪魔をする。
元はと言えば誤解からなので、最終的にはわかり会えるという類の話が他の作品には良く見られるパターンですが、この物語に登場する老婆だけはそう簡単では無いのでした。
生きている内の和解どころか、死んだ後にまでも敵対する。

チャーリーが主人公なのはあたり前なのですが、章毎に別の人の視点で別の人が語り手となって続いて行くのもアーチャー氏の小説ではよくあるパターンです。

時にはそのテンポが早すぎて返って分かりづらかったりすることもありますが、この小説の場合はそういうわかりづらい、という心配はないでしょう。

チェルシー・テラスへの道(As the Crow Flies)  ジェフリー・アーチャー(Jeffrey Howard Archer) 著 永井淳訳