カテゴリー: 桐野夏生

キリノナツオ



抱く女


桐野夏生って女性だったんだ。

これまで何冊か読んで来て、女性の心理描写に長けた人だとは思いつつも、ナツオと言う名前から勝手に男性だと思い込んでしまっていた。

女性でしかも団塊の世代。

と、なればこの物語の主人公の思いは作者の思いとかなりの部分で被るのだろうか。

この話の時代、高度成長真っ盛りだわ。東京オリンピック後の大阪万博があったり、未来というものに夢を持てる時代だと、皆が哀愁を込めて懐かしい時代、いい時代だったなぁ、ともてはやされる時代じゃなかったか。

それがどうだろう。
この話の登場人物たちの荒んだ生活は。
大学生達は、大学へ行くわけでもなく、雀荘で高レートでの麻雀三昧。

時、あたかも連合赤軍の集団リンチ事件やあさま山荘事件などが起こり、学生運動ももう終焉を迎えようとしている中、革マル派だの中核派だのと同じ学生運動をしていたもの同士が争い、殺し合う。
彼らの敵は権力でも無ければ政府でも無い。

主人公の女性そのものもろくでもない生活を送る一人には違いないが、それにしてもこの話に登場する男たちの女性に対する蔑みはどうなんだ。
これは筆者自身の体験なのだろうか。

主人公の女性は、男たちから公衆便所とあだ名されていることを知り、彼らから遠ざかって行く。

「永遠の青春小説」だとかという謳い文句の本なのだが、こういうのを青春小説というのだろうか。なんともじめじめと暗い。
主人公も周辺の男たちも、ろくなやつが居ない。

別に時代のせいでもないのだろうし、この本が時代を表すとも思ってはいないが、もし、ここに書かれていることがこの時代を著している、というのなら・・・
明るい未来が待っているわけでも無く、高度成長も無いが、平成の世の方がよっぽどいい。

抱く女 桐野 夏生 著



ナニカアル


なかなかにチャレンジ精神旺盛な珍しい本ではないか。
林芙美子という実在の小説家の手記が別の作家の手によって書かれてしまう。

他の実在の小説家の名前が実名で何人も出て来るので、どこまでが作った話なのか、どこまでが実際に有った話なのか、判別が付きづらいが、巻末に掲載された膨大な参考文献の数から言っても、かなり当時をまた林芙美子を忠実に再現しようとしたのだろう。

話は林芙美子が亡くなった後で、芙美子の遺品を管理していた夫も亡くなったところから始まる。
遺品の管理は芙美子の姪で芙美子の夫と結婚している女性が、知り合いに遺品の相談などを手紙でやり取りする。
冒頭はその手紙の往復から。

亡き夫は売れない画家で自ら描いた絵は全て処分するように遺しているのだが、その絵の裏から、芙美子の手記を発見してしまう。
そして、その林芙美子の手記そのものがこの小説そのものなのだ。

林芙美子は従軍作家として中国戦線の第一線を取材し、それを書き、国威発揚の文章として発表される。
もっと年を経て女流作家だけ数名集められ、シンガポール、ボルネオ、ジャワといった南方戦線へ行っての視察団に選ばれ、陸軍の意図に沿った取材、執筆を命じられる。

病院船を偽装した船で南方へ行くまでの間に船の乗務員といい中になって抱き合ってみたり、南方へ行ってから、長年の恋人だった新聞記者との再会を果たす。
お互いに妻ある身、夫ある身だ。

南方では、作家としての本来の物書きではなく、陸軍の意図に沿ったものしか書かせてもらえない。
従卒として身の回りの世話をしてくれる老兵を付けてくれ、彼は常に身近なところに居て、恋人との仲を応援してくれたりするのだが、実は彼もまた、彼女を監視する役目だったことがわかったり、と、だんだん誰も信用出来なくなってしまう。

南方各地が日本国の地図になっていくその当時の高揚感が軍部からは伝わって来るが、作家としては欧米の支配という役割を一時的に肩代わりしただけではないのか、という冷静な視点もあるのだろうが、書けるのはおそらくこの手記の中だけだろう。

結構、夫をないがしろにした人なのだが、帰国してから、夫に内緒で出産するところまで来ると、思わず「ホヘッ」と驚いてしまった。

いくら膨大な参考文献を当たったところでこの手記がどれだけ林芙美子があたかも書いたものと思わせられるかが、この本の値打ちを決めるのだろうが、残念ながら、林芙美子という人、「放浪記」を書いた人ぐらいの予備知識しかないので、私にはその値打ちの判断はつかない。
ただ、桐野氏にそのぐらいの自信が無ければ書きはしなかったであろうから、おそらく、林芙美子を良く読んでいる人にも納得させられるほどのものだったのではないか、と推察する。

大作家が書いたものとしての文章を書いてみるという作業、かなり勇気のいることだろう。
よくぞ、こういうものを書いてみようと思い立ったものだ。

ナニカアル 桐野 夏生著



IN 


あの『OUT』を書いた同じ作家が今度は『IN』。
どれだけ期待したことだろう。

『OUT』とは主婦たちによるバラバラ殺人の物語。
殺人をすることが目的ではなく死体処理としての解体作業という凄絶ことを行いながらも方その凄絶作業としての労働として割り切って副収入を得る主婦たちを描いた衝撃作である。

方やこの『IN』という作品はそういう要素は全くない。
作家の物語である。
その作家、鈴木タマキはがかつての大物作家の小説の中に出て来る不倫相手を特定しようとする。大作家とはいえ、そこは小説なのだが、妻の名前や娘の名前も実名で書かれてあって、到底想像の産物とは思えない。
実際にあった話ならそのモデルになった女性が必ずや存在するであろうと。

そういうコンセプトの本ならそれはそれでいいだろう。
だが何故、『IN』なのだろうか。
あまりに『OUT』を意識させるタイトルじゃないか。
それぞれの章立ての章タイトルが「淫」であり「隠」「因」「陰」「姻」とあたかも韻を踏んでがいるかの如くにインなのだが、いかにもとってつけたインじゃないか。

主人公そのものが編集者とかつて愛人関係にあり、その関係をこの大作家の愛人関係と重ねて考えたりする場面が多々あるのだが、編集者と作家、というのはタイトルの付け方だけでも丁々発止するものらしいので、この『IN』というタイトルにも案外集英社のベテラン編集者が命名したのかもしれない。

で、登場する大作家、緑川未来男というなんとも大作家らしからぬ名前なのだが、自身の愛人関係を赤裸々に書き上げる。
そこには、実名で登場してしまった妻や娘に対する気遣いなど一切なきが如く。

実際に誰に対して一番気遣いが無かったのかは、後半以降を読めばわかる。

大作家で赤裸々にと言えばなんといっても谷崎潤一郎あたりが思い浮かぶ。
妻は千代。この緑川の書いた「無垢人」に出て来る妻は実際の妻の名前である「千代子」。だがそうではあるまい。
谷崎よりも寧ろ谷崎の賞を取った島尾敏雄の「死の刺」あたりが近いのかもしれない。

島尾敏雄と言う作家はあまり好んでいないので、自分の好んだ作家を例にあげるなら、なんといっても「檀一雄」だろう。

別にモデル探しをしているわけではない。
自身の愛人生活を赤裸々に描いた代表作は『火宅の人』相手は女優の入江杏子だといわれたが、その入江杏子なる人はあまり知られていない。

あれこそ、想像から産み出たものなどこれっぽっちもなく、壇一雄の有り様そのままだったのではないか、と思っているのだが、それはこの緑川なる架空の大作家の生き方をそのまま小説にしたのだろうと、主人公が思い込むのと同じ発想なのかもしれない。

その当時の壇氏は全く家庭を顧みることないが、夫人はこの緑川の夫人の千代子のように嫉妬に狂うわけでもなく、娘の壇ふみさんは最近トンと見ないが、一時は知的な雰囲気の女優として結構活躍されていたと思う。

壇氏を語る上で欠かせないのが、なんと言っても『リツ子・その愛』『リツ子・その死』だろう。
自分の最も好きな本だ。
これももちろん想像の産物などと思ったことはなく。
あの中での太郎の「チチ」「チチ」が忘れられない。
リツ子・その死に至らなければ、壇一雄は火宅の人にならなかったかもしれない。
というよりもならなかっただろう。

『火宅の人』にせよ『リツ子・その死』にせよ、自身の周辺を書いてしまっている以上、『リツ子・その死』で出て来るリツ子の親戚連中は悪者以外の何者でもなく、私小説と言われる類のものはやはり誰かを傷つけるのは必至であり、やむを得ないものなのだろう。皆が善人で非の打ちどころのない人間ばかりの私小説なと有り得ない。
ファンタジーでも有り得ない。

この『IN』では、そういう誰かを犠牲にして成り立つ小説というものを方や取り上げながらも実際に一番愚かだったのは誰だったのだろう・・・といろいろなメッセージを投げかけているのかもしれない。

ただ、壇一雄に戻って申し訳ないが、『リツ子・その死』で悪く書かれた人(もちろん実名で出ているわけではないが、周囲の人ならわかるだろう)は、誰かを犠牲者にしてなどと言うつもりはこれっぽっちもなく、寧ろ正直に書く事で、さらにそれが発表されることでの復讐的意図さえあったのではないかとさえ思えてしまう。
ただ、それはモノが豊かになったこのご時世で言えることで、戦後間もないあの時期に誰しも私小説家に何を書かれようが、どう思われようが気にするゆとりもなかったことであろう。

『OUT』のことは取りあえず忘れることにして、そんなこんなを思わせてくれる本でした。

IN 桐野 夏生 著(集英社)