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誰が第二次世界大戦を起こしたのか


アメリカ合衆国のフーバー元大統領

合衆国の31代大統領、フランクリン・ルーズベルトの一代前の米大統領、ハーバート・フーヴァー氏が、後世のためにこれだけは書き残しておかなければ、と固い思いで書いた回顧録、「裏切られた真実」。

後世に何としてでも伝えなければ・・・のはずなのに2010年代になるまで出版されることが無かった。
その内容がいかに第二次大戦後のアメリカにとって不都合なものだったかを物語っている。

フーバーはあのヒトラーをして、彼がもし第二次大戦に入る前に暗殺なり病死なり事故死なりで死んでいたとしたら、20世紀で最も優れた宰相と呼ばれたことだろう、と述べている。
「ヒトラー」と言う名前、悪の代名詞として使われることはあっても、誉めている言葉などほぼ聞いたことが無い。しかもそれが元米大統領と言う立場のような人なら、なおのことだろう。

事実、ヒトラーが政権を取ってから、ドイツの失業率はみるみると減少し、景気も上昇し続け、超がつくほどの弩級のインフレも落ち着く。
内政にてはほぼ及第点だろう。

というよりもそもそも第一次大戦の後処理のベルサイユ条約というのがあまりにひど過ぎた。ドイツを一方的にいじめ過ぎていた。

ヒトラーの外交という面についてもフーバーの見解は後世の人たちの見解とはかなり異なる。
ヒトラーのオーストリア侵攻を悪魔の時代の始まりと見るのが後世の歴史だが、実際には無血入場であって一滴の血も流されていない。元々ヒトラーはオーストリア出身だったこともあり、オーストリアの人々は熱烈に歓迎、その後オーストリアはみるみる経済発展していく。チェコに関してもしかり。
元々、第一次大戦前のドイツの地図を見ればわかるのだが、ドイツの国土はかなり強大である。ポーランドなどと言う国すら存在していない。
もちろんフーバーはヒトラーの信奉者などではない。
独裁者として見ている。
但し、フランクリン・ルーズベルトと異なるのは、彼はスターリンもまた独裁者であることを知っていたし、ヒトラー以上に脅威だと思っていたことだろうか。

ヒトラーがイギリスと一戦交えることなど露ほども思っていないことをフーバーは知っていたし、共産主義国家を毛嫌いしていることも知っていた。
だからこれから覇権国家を狙っているソ連に対する防波堤としてヒトラー率いるドイツを活用するのが一番だと思っていた。ソ連西からドイツが封じ込め、東からはノモンハンで紛争している日本に封じ込めさせる。
おそらく、当時の大統領がルーズベルトではなく、フーバーだったとしたら、その後の歴史は大きく変わっていたことだろう。
別の紛争は当然起きただろうが、長きにわたる東西冷戦などは存在しなかったのではないだろうか。
ヒトラーのポーランド侵攻、これに対して、英仏がドイツに宣戦布告する。これはフーバーにとっては寝耳に水だ。同じくポーランドに侵攻したソ連に対しては英仏は宣戦布告していない。
英仏にとってこの不利な戦い、ましてや自国が侵略されようとしているならいざ知らず、ポーランドの首脳の優柔不断が招いた結果に対して自国の若者を命を差し出すなど当初は全く考えていなかったはずである。

この後のルーズベルトの動きを見ると、彼自身、熱烈な共産主義者だったのではないか、と思わせられるほどに、ソ連にとって都合よく動いている。

ケネディ米駐英大使がルーズベルトの命を受けて英首相を説得した事実をフーバーは掴んでいた。アメリカは必ず参戦します、と。

ところがアメリカ国内ではモンロー主義の嵐でなんでわざわざ我が国の尊い命をそんな他国の戦に捧げねばならぬのか、と、とてもじゃないが参戦など出来そうにない。

そこで、どうしても必要だったのが、日本による真珠湾攻撃だった、という訳だ。
どうやってでも日本に先制攻撃をしてもらう必要があった。
これは日本の右寄りの人の意見でもなんでもない。フーバーそのものは親日家でもなんでもない。
そういう人の見解。

「誰が第二次世界大戦を起こしたのか」のタイトルについて歴史の教科書ではほぼ間違いなく、ヒトラーであり、ムッソリーニであり、日本の軍部ということなのだろう。
もちろん三者がいなければ起きてはいないだろが、フーバーの見立てでは、その三者よりかなり上位に、ニューディール政策に失敗したフランクリン・ルーズベルトの存在がある。
彼こそが大戦を起こした張本人?

そりゃ、永らく出版されないだろう。

誰が第二次世界大戦を起こしたのか -フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く-渡辺 惣樹著



村上海賊の娘


この本、2014年の本屋大賞。
全国の本屋さん達が一番売りたいと思った本。
本の目利きが最もおすすめする本なのだ。
こういう時代ものって一般受けするのかなぁ、と思いつつ読み進めていくうち、途中からもう面白さ爆発。
下巻になるともう止められない。一気読みしてしまった。

結構ハチャメチャに書いているようで、実はかなり歴史に忠実に書かれていることがうかがえる。
本文の中にも「信長公記」の中では、とか「石山軍記」の中では・・ルイスフロイスはその著書の中で・・・とか、至る所に引用文献が記載されているが、巻末の主要参考文献を見ると、その文献を羅列するだけでなんと4ページも。

この作者、この本の一つ一つの描写の裏付けにかなりの歳月をかけたのではないかと、思わせられた。

方や史実に忠実でありながら、その史実に無い行間を思う存分、好き勝手に書いちゃった感が満載。

織田信長が大坂の石山本願寺を攻める際に、攻めあぐねて兵糧攻めにしようとする。
石山本願寺は毛利家へ海路での兵糧補給を依頼する。
単に兵糧を運ぶだけなら毛利家だけでも充分なのだが、兵糧を運ぶにはそれを守る部隊が必要となる。
そこで登場するのが村上海賊。

村上海賊は来島村上と因島村上、能島村上の三家からなるが、最も力があるのが村上武吉が率いる能島村上で、ここだけは他家と違ってどの大名傘下にも属さない。

その村上武吉の娘が主人公の景(きょう)。

この主人公の活躍が最も史実から遠く、作者が好き勝手に書いちゃった感が最も出ているのがそこ。

毛利の助っ人が村上海賊なら、織田方の助っ人は泉州の地侍達で、中でも突出しているのが眞鍋七五三兵衛率いる眞鍋海賊。

この泉州侍たちの書かれ方がまたすさまじい。
この本では「俳味」という言葉で何度も書かれているが、要は「洒落っけ」を何より重視する。自らの命よりも俳味に重きをおく。

全国区ではちょっと受け入れられるのか、ちょっと心配になるのが、すさまじいまでに登場する泉州弁。
この本の泉州弁は今の和歌山弁に近いように思える。
目上への敬語が無いのは今でも紀州の特徴だ。

泉州侍達は元より織田の家臣では無いし、戦況次第ではどちらにでもすぐに寝返るのが泉州の特徴の様に書かれているが、この時代、そんなのは泉州に限らずどこでも当たり前かもしれない。

毛利側が兵糧船と戦船合わせて千艘。傍から見れば、千艘の大軍団だ。
でも実際に戦えるのは300ばかり。
方や泉州側も海賊150と陸の泉州侍が載る船が150。

村上海賊の娘が泉州の怪物、眞鍋七五三(しめの)に対して掛け合いに行く(もう戦うのんやめとこや、と交渉に行く)シーンがあるのだが、そこで物語上では七五三はまんまと千艘まるごと戦船と信じさせられるのだが、そこで七五三が出した答は、「そんなん面白ないわ」の一言。
仮に99%負けるのがわかっていても面白いか面白ないかが判断基準となる。

方や自家存続のためなら何でもするはずが、大将のたった「面白ない」だけのことでどれだけの命が失われる事か。自家はもとより味方の軍勢の命。もちろん敵の命も。

ここらあたりも史実の行間というやつなのかもしれない。

おかげで話は俄然面白くなってしまった。

本屋さんがおすすめするのむ無理無いな。これは。

村上海賊の娘 和田竜 著



憤死


いままでに綿矢りさの小説作品は何作も読んできた。
「インストール」や「蹴りたい背中」に始まり、「勝手にふるえてろ」や「かわいそうだね?」などなど、どの作品の主人公も女性だ。
女子特有のもやもやした感情を書いているのに、不思議と暗い物語にはならず、スムーズに読んでいけるものばかり。そんな読みやすさが気に入っていた。

しかし今回の「憤死」は、男の子の主人公の作品もあった。
いつもの癖で女の子だと思って読み始めたので、男の子だとわかってからも最初はほんの少し違和感があったが、読んでいるうちにすぐ慣れた。
全4作品の中でも印象に残った2つを紹介したいと思う。

■トイレの懺悔室
少年たちが公園で遊んでいると、よく声を掛けてくるおじさんとの交流から始まる。
そのおじさんの自宅へ行った時、おじさんはキリスト教の考え方を子供たちに話し、牧師めいたことを語った。
そしてひとりひとり薄暗いトイレに来てもらい、子供たちの懺悔を聞こうというのだった。
主人公の男の子は残忍なやり方で虫を殺したことを告白。
そして万引きの経験を打ち明けた。最初はおじさんの牧師の真似事を馬鹿にしていた少年だったが、懺悔することでどこか心が晴れるのを感じた。

そして月日が流れ、少年たちが再会したとき、おじさんの話題になる。
おじさんの様子を見に行くこととなった主人公は、年老いて弱ったおじさんの姿を見ることとなる。
懺悔しに来た時のことを思い出し、暗い気持ちになったところで物語は終わる。
人が弱くなったところを見るのが怖くて、お見舞いには行きたくないという彼の考え方が妙に心に残った。

■憤死
このタイトルで、憤死をいう言葉をはじめて知った。
文字通り、憤りすぎて死んでしまうことらしい。

愛する人と別れることとなり、自殺未遂をしたという昔の同級生、佳穂。
これだけ聞くとなんとも繊細な女の子を想像してしまう。
しかし彼女、別れが悲しくて飛び降り自殺未遂をしたわけではない。
別れたことが悔しくて、腹立たしくて怒りに打ち震えていると、気が付いたらポンと飛び降りていたのだという。

主人公の女の子は、この話を聞いて学生時代の佳穂のことを思い出していた。
ウサギ当番をしない佳穂を、みんなが責めたことがあった。
彼女は主人公の女の子を連れて、おとなしくウサギ小屋に向かった。
そして餌の入ったバケツを持ち上げると、狂ったようにバケツをそ振り回し叩きつけ、激昂したのだ。

佳穂はケーキを食べるとき、最初にメインのいちごにフォークを突き立て、食べてしまう。
佳穂は自分の自慢話ばかりを並べ、主人公を今も昔も見下しきっている。
決して万人受けするとは思えない佳穂。
しかし怒りを全身で表現し、感情をぶつける佳穂の行動を読んでいると、なぜだろう、完全には憎めなくなってしまう。
死んでしまうほど激しい感情を持つ彼女の素直さに、魅力さえ感じた。

「憤死」に収録されている、「おとな」「トイレの懺悔室」「憤死」「人生ゲーム」は、どれも幼少時代の話が基盤にあり、大人になってから再会したり理解が深まったりして、話が進むという共通点がある。
子どもの時はなんとなく過ぎ去ってしまった体験も、大人になり振り返ってわかることもあるということだろうか。
作品の内容1つ1つだけではなく、本全体の構成からもテーマが読み取れる一冊だ。