巡礼 橋本 治


このお話、ゴミ屋敷をめぐるお話なのです。
まさかそのゴミ屋敷をめぐる登場人物だけで一冊書いてしまっているとは思わなかった。

メディアでもたまにゴミ屋敷やその住人、またその周辺の人びとが取り上げられているのを見たことがある。
周囲(ご近所)からは、気味悪がられ、漂う臭気を迷惑がられ、再三の改善勧告にも全く耳を貸さない。

このゴミ屋敷の主もそんな近所の迷惑を顧みない老人である。

物を捨てられない人というのは案外いるものである。
マンションやアパートの様に狭い所に住んでいれば、自ずと許容量というものがあるので、捨てて行かないと寝る場所が無くなってしまうこともあってどんな人でもモノを捨てざるを得なくなってしまうものだが、広い一軒家に住んでいる人で庭に物置でもあろうものなら、捨てる前に一旦物置へ放り込んで、結局そのままゴミと化した後も残ってしまう・・というようなケースならざらにありそうである。

まして、この主人公はかつては荒物問屋に勤めており、実家も荒物屋。
時代の流れと共に現代では不要になったものも、かつては売り物だったわけだ。

今は不要なモノを、ゴミと見るのか、何かの時には役に立つモノとしてみるのか、このご老人の場合は元々荒物屋、何かの時にしか必要の無いものを商売ものとしていた以上、ゴミ屋敷の主人となる素地は元来からあったわけなのだが、自ら明らかなゴミを自宅まで運んで来る、生ゴミさえも捨てずに溜めておくところまで来てしまってはもはや何かが壊れた人、としか言いようがない。

この話、その老人がかつて軍国少年だった時代から戦後荒物問屋へ住込みの丁稚として奉公していた頃の話、結婚して今の家へ移り住んだ時代・・・と彼の過去の生き様を書いて行く。

その老人のかつて妻となったサラリーマンの娘、八千代と姑のやり取りは、不謹慎かもしれないが面白い。
新居に来て、鍋釜が無い、洗濯ばさみがない、何が無い・・。
荒物屋の奥さんに言わせれば「そんなもん、そこら探せばあるだろうに」ということなのだが、これは何も荒物屋とそれ以外の職業に限った話ではなく、物の置き場所というもの、片付けた人間がにすれば、そこにあるのがあたり前。
そうでない人間にしてみれば、片付けた人間に聞くのが一番手っ取り早いものなのだ。

「おーい、はさみはどこにある?」「おーい、ホッチキスはどこにある?」
「全く、この人は私が居なけりゃ何にも出来ないんだから」
なんて、どこの家庭からも聞こえてきそうなやり取りである。
片付けた人間は片付けたという行為だけで、自らの必要性を訴えてやしないか?などと思うことしばしば。

それが「おーい、○○はどこにある?」と聞ける立場ならまだいいのだが、相手が姑ともなれば遠慮が勝ってしまってなかなか聞くに聞けない。
まぁ、それだけの問題ではないのだが、結局、姑からすればドン臭い嫁ということになってしまう。

そんなこんなの昔話に話の大半を割いている。
まぁ、そうでもなけりゃ、ゴミ屋敷の異常なジイさんとそのご近所だけでは一冊の本にはならないだろう。

不器用で生真面目だった人。戦後、時代はどんどんと流れていくが、住込みの丁稚で世の中のニュースも知らないまま育ち、その流れからなのか、その後も流されるだけの人生。
そんな人生を送った人も確かにいるのだろう。

それにしても「ゴミ屋敷」の迷惑さを騒ぐメディア。騒ぐだけで解決策は持たない。
騒がれることで「ゴミ屋敷」は有名になり、わざわざ車で来て粗大ゴミを捨てに来る人間も現れるぐらい。
おかげで隣近所は昼間であっても窓も開けられない。
そんな垂れ流すだけの無責任な報道という名の情報のなんと罪深いことか。

巡礼  橋本治 著 新潮社

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