線は、僕を描く砥上裕將


水墨画などという地味な題材がテーマなので、途中で眠くなる様な本なんじゃないだろうか、と思いつつ読み始めたが、なんだろう、このぐいぐいと水墨画の世界の中に引っ張られるような感じは。
とまらなくなってしまった。

結局、一度も休むことなく読み切ってしまい、翌日から二度目の読みに入った。

これを、書くのにどれだけ取材したんだろう。書かれているセルフの中にはその世界に居る人でなければ絶対にわからないような表現がいくつもある、などとと思っていたが、この砥上さんという作家そのものが水墨画家なのだった。

小説家が水墨画のことを勉強して小説にしたのではなく、水墨の絵師が小説の形を借りて、水墨の世界を紹介したということなのだが、この水墨画の先生の文章は卓越している。
登場人物はもちろんフィクションだろうが、水墨に関するところはノンフィクションなのではないだろうか。

ストーリーは、高校時代に両親を交通事故で失い、その後、空っぽになってしまった大学生が主人公。
大学へ進学するも空っぽのまま。内に籠ったまま誰とも親しくなる気が無い。
そんな彼が大学で開催される水墨画の展示会の設営のアルバイトを引き受けた時の出会いがまさに人生を変える出会いとなる。
日本の水墨画のトップに君臨する絵師、篠田湖山という著名な先生だとは知らずに、一緒に水墨画を見て廻り、思ったままの感想を述べただけで、君には見る目が備わっている、と「私の弟子になりなさい」と半強制的に弟子になる嵌めになってしまう。

芸術というものを文章で表現するなど、ほぼ不可能だろうと思えるような事を砥上氏はやってしまっている。
白と黒とその濃淡だけで表される水墨画。しかし、主人公の青年は描かれた薔薇を見て、黒いはずなのに赤く見えるという。それを読んでいるこちらも黒いのに赤く見える薔薇を想像している。

巨匠が認めただけあって、この主人公君は見る目を持っているのだ。
観察眼がすごい。
日本の水墨画の頂点の二人、またその頂点の絵師の一番弟子、二番弟子が実際に水墨画を描くところを目の前で見、その観察眼で、腕の動き、筆の動き、そして出来上がった生き生きとした水墨画を見て、頭に叩き込む。

彼の観察眼で見たものを描写して表すことで、読者もまた、その目の前に日本の頂点を極めた人たちの水墨画を思い描く事ができるのだ。
それが表現できてしまうのが自身が絵師としての表現力を持っているからなのだろうか。

クライマックスは二番弟子の斉藤湖栖という先生が白い薔薇を描き最後にその薔薇に蔓を描くシーン。もう一つは湖山先生が大学の学園祭に引っ張り出され、キャンパスで揮毫を披露するシーン。
ただの線のはずなのに見えないはずの風が吹き、匂うはずもないのにかおりがし、重さががあるはずもないのにその質量を感じるその線。
そこに描かれたのは生命の息吹きそのもので、見るものは誰しも感動する。

水墨画は瞬間的に表現される絵画で、その表現を支えているのは線である。
そして線を支えているのは、絵師の身体。
線を眺めているとどんな気質のどんな性格の持ち主が描いたのかも推察できる。

主人公君が空っぽで真っ白な自分に生き生きとした生命の宿った水墨画という線を描いていく、そんな話だ。

まるで芸術作品を鑑賞させてもらったような豊かな気持ちになる本である。

二度目をじっくりと読んだ後もしばらく余韻に浸っていられた。眠ろうと目を閉じても生命力ある水墨画が頭に浮かんでくる。こんな読後体験は初めてかもしれない。

水墨画展など、ついぞ聞いた事も無かったが、今度開催を見つけたら、なんとしてでも行ってみたい。

線は、僕を描く  砥上 裕將著