カテゴリー: 楊逸

ヤンイー



獅子頭(シーズトォ)


むしょうに中華料理が食べたくなってしまう本です。

楊逸さんの芥川受賞作「時が滲む朝」が天安門事件以降だとすれば、この本の出だしはそのもう少し前。
文化大革命の名残りが残っていた時代から、ということになるでしょうか。

地方の農家の次男として生まれた主人公が都会へ出て成長していく過程は極めて順風満帆。

人民軍で手柄をたてた伯父さんのコネで父親が雑技学校の調理師に就職が決まります。
兄弟で雑技学校へ入学を試みるが、兄は成長したぶん身体がかたく落第。弟の主人公は幼くて身体が柔らかかったことが幸いして、入学が出来てしまう。

雑技学校ではメキメキと頭角を表し、上海での舞台にまで立てるようになり、そこの主催者から招待された高級レストランで食した獅子頭(シーズトォ)と呼ばれる肉団子が彼の将来を左右する食材となる。

慰安公演の練習中の事故が彼の人生を変える。
雑技団の一員になることをあきらめた彼には不遇の人生が待っているかというとそうではない。

大連へ出て、中華料理の店で働く事を決意するのだ。

そこでも彼が恵まれていることに、店の娘(後の妻の雲紗)が一緒に料理学校へ行こうと勧めてくれる。
店主への説得は雲紗がしてくれる。
料理学校で調理師免許を取り、卒業するや大連で一番のホテルの調理師見習いで雇われたかと思うと、従業員の賄い作りで、メニューに無かった「獅子頭」を作って出したことが幸いして、20歳をわずかに過ぎた頃には、そのホテルの本格料理人になってしまう。
そして雲紗とも晴れて結婚し、可愛い子供にも恵まれる。
あまりにも順風満帆すぎるのです。

看板料理人となった彼は日本から来た紳士に認められ、日本へ行くことを料理長やら経営者から命令される。

さぁ、ここまではほんの入り口。

物語はここからが本編と言っていいでしょう。

愛する美人妻、産まれたばかりの愛する娘と別れて暮らすことに散々抵抗をこころみるが、中日友好のためだから、と上から散々説得されてしぶしぶ日本へと旅立ちます。

中日友好のためなどと言われて、舞い上がっていたのになんのことはない、日本の中華レストランの料理人の一員に加わっただけのこと。
しかもカビ臭い共同部屋をあてがわれて。

ここから先のこの主人公、あまりに可哀そう過ぎるのです。

彼はそれまで自分は田舎から出て来た田舎者としか呼ばれていなかったので、自分では意識していなかったのでしょう。
なかなか男前らしい。
それに雑技をやっていただけあって、ひきしまった身体もスマート。

つまり、日本の女性からもてるのです。
昼食時に必ず寄り添って中国語を習いたいといい、日本語を教えるという店の看板娘。
実は娘というには少々とうが立っているのですが・・。

そうやって寄り添うのも中日友好なのか、と納得する主人公。
ある日、紅葉を見に行こうと彼女から誘われる。

この男、それがデートの申込だと気が付かないのです。

出国した時の意識のままの彼は国が変わりつつあることを知らない。
以前の中国共産党から「不適切な男女関係」と見られないように、気を配るのですが、それでも「断る」ということを知らない。
彼女の家へ招かれるとそのまま付いて行くことが礼儀だと思っている。

彼女からキスされてほぼ襲われる格好ながら、行きつくところまで行ってしまったのが運の尽きだ。
とうとう彼女に結婚を迫られてしまう。
子供が出来たというのだ。
結婚適齢期、実際にはそんなものはないのでは、と思うのですが、そう思っている女性で且つ自身が適齢期を少し過ぎたあたりと思いこんでいる女性というもの、なんて怖いんでしょう。

同僚の上海から来た先輩料理人も文革時代の人で、「お前は政治犯として死刑になるぞ」と散々脅し、大連の妻とは離縁出来るように取り計らってくれる。

この主人公氏、かつての順風満帆はどこへやら。
それもそのはず。彼が自分で物事を決めたのは、大連の中華料理屋で働く、と決めたことだけなのだ。
その後の料理学校にしろ、一流ホテル勤めにしろ、獅子頭づくりにチャレンジしてみる、などは全て後の妻となる雲紗のアドバイスに従って来ただけ。
流されるままの彼はいつの間にか故国の愛妻とは離縁となり、自分より年上で、化粧を落とせば美しくもなくたるんだ頬の女と結婚させられ、その先には、レストランもやめてその妻(幸子)が計画した食堂の厨房で料理を作るはめになる。
一流の料理人が、町の食堂で一律700円の定食を作り、年間365日働かされて、お金は妻が握っているので事実上賃金無し。
まさに資本主義による搾取じゃないか、とぼやいてみてももはや打つ手なし。
彼は結婚前から幸子とはどうやって離婚出来るのか、結婚後も頭の中はそれしかない。

こうやって早い時期に日本へ来た人というのは時計の針が来日の時から止まってしまっているのかもしれない。
毎日毎日、厨房にいるので、世の中がどう変わったのかなんて知る由もない。

その厨房で働き続けているうちに、本国は発展し、自分よりはるかに恵まれなかったはずの兄ですら、会社を経営し、豊かになって左団扇の状態だというのに、彼だけは文革時代のまま取り残されている。

本の帯には「誰も読んだことにない成長小説」だとか、「中国人青年の波乱万丈の日々を明るく描く新しい成長小説」などと書かれていたのだが、果たしてこれが明るい成長物語なのでしょうか。

悲しい悲しい話のように思えてきます。

はてさてその先、主人公氏に待ちうけているのはどんな展開なのでしょう。
その先は手に取って読んでみることをお勧めします。

それにしても楊逸さん、どんどん作品が活き活きとして来ますね。

楊逸さん、あまりテレビとか出ない方がいいんじゃないでしょうか。
あまりにも騒々しく話されるので、書かれているものそんな騒々しいものだと誤解されてしまいますよ。

この物語の主人公が先輩中国人から教わった日本語習得の仕方に、日本の漢字をそのまま中国読みし、その後に「する」をつける、すると大抵の言葉は通じてしまう、というくだりがあります。

楊逸さんの日本語会話の当初の習得方法はこれだったのではないでしょうか。

獅子頭(シーズトォ)』楊逸(ヤンイー)著



金魚生活


中国では縁起をかついで、時に人間より大事にされる金魚。

ひたすらその金魚の世話を店主から任される主人公の女性。
この女性は中国人のタイプというより寧ろ、控え目な日本人のタイプに近いように思える。
もちろん人口12億も居る国なので、一括りに「中国人のタイプ」などがあるわけもないのだが・・・。

それでもこの作者がそうであるように、大陸的な大らかさというか、細かいことを気にしない気風が一般的なのではないだろうか。

細かいことどころか他の民族はそうそう容易く国籍を捨てたり変えたりはしないだろうが、彼の国の人はいとも容易く他の国籍に乗り換えたりする。

主人公の娘はそういう意味で非常に彼の国の人らしい生き方をする。
日本の国籍を取得し、日本で働き、出産を迎えるに当たって未亡人であった母を呼び寄せ、そのビザの期限が切れる前になんとか母を日本人と結婚させて日本国籍を取得させようとする。
そんな彼の国の人らしい割り切りのはっきりした娘の親にしてはなんとも主人公の女性は奥ゆかしい。

まぁ、感想はそんなところです。

この「金魚生活」というタイトルは主人公に狭い金魚鉢の中で飼われる金魚を重ねようということなのだろうか。
良くわからない。
主人公の女性が日本へ来た時にも好んで着た金魚色の様な服と金魚を重ねて、結局自由に生きることを望まない主人公と鉢の中の囲われた金魚を重ねているのだろうか。

深い感想文にはならなかったが、芥川賞を受賞した作品よりも洗練されている様にも思えましたし、楊逸さんへの期待度は高まりました。

金魚生活 楊逸 著 (文藝春秋)



時が滲む朝


中国人として初めての芥川賞受賞。
あの天安門事件の時の大学一年生が主人公。
学生達の叫んだ民主化、民主化は掛け声だけだったのだろうか。
登場人物は民主化とはいかなるものなのか、イメージがつかめないままどんどんその運動の渦中に入って行く。
天安門事件を扱うのなら、あの当時中国の学生達を燃え上がらせた、また燃え上がらざるを得なかったその背景についてもっと踏み込んでいってほしい気持ちはあるが、民主化と言ってもそのイメージもないままに突入した学生が主人公ならばその背景を描くことは返って矛盾となる。

学生を煽った先生はアメリカへ亡命。
かつての同志たちもバラバラに。
日本へ移住した主人公は中国の民主化運動のグループに参加する。
ちょうど北京五輪の最中である。
その北京五輪の開催反対の署名活動を行う人物が主人公になった本がこの時期に賞を受賞したこととの因果関係などを勘繰りたくなってしまうが、芥川賞の受賞作家達が選考委員となって決定される賞である。
背後に政治的意図などは皆無だろう。

主人公はひたすら生真面目に香港返還の反対運動や五輪開催反対運動を行おうとするのだが、グループに集まる人々の目的は様々で、商売のための人脈作りが主だったりする。

中国本国の経済発展を横目で見ながら、民主化という名の霞みだけを食っていては誰も満足に食べてはいけないということなのだろう。

この本より何より楊逸という人の芥川賞受賞のインタビュー記事の方がはるかにインパクトがあった。
このインタビュー記事の内容を小説にした方がはるかに読む者を引き付けたのではないだろうか。

幼年時代は文化大革命の真っ盛り。
五人兄弟で長姉は下放の折りに事故で亡くなる。
その次は一家全員が下放でハルピンの家から地方へ。
行った先は零下30度の激寒の地。
もちろん電気もガスも暖房器具に相当するものも何にもない。
何年かしてようやくハルピンへ帰ることが出来るのだが、一家で飼っていた愛犬までは連れて帰るわけにはいかない。
近所の人に面倒をみてもらおうとお願いしたら、鍋にして食べられちゃった。
うーん、なんとも中国らしい話だ。
帰ったハルピンには住む家がない。
一家が住んだのはなんと高校の教室。
学生達が登校してくる前に携帯のコンロで朝ごはんを作り、登校してくる頃にはそれぞれの職場や学校へ散って行き、学生達が帰るとまたその教室へ舞い戻り、晩御飯。

ようやく学校の敷地内に部屋を設けてもらうが、お隣りの一家が学校が購入したテレビをお正月にみようと自分の部屋に持って来て、というあたりも中国人らしさならそのあとがもっとすごい。スイッチを入れたとたんにテレビから火が吹き出して、部屋は全焼。
そのあおりを受けて楊逸さん一家の部屋も全焼してしまう。

なんともはや踏んだりけったりもいいところ。
ただ多かれ少なかれ、党員のエリートでもない限りは同じような境遇に出くわした時代なのだろう。

今でこそ、経済発展めまぐるしい中国だが、ほんの少し前までは街中は人民服と自転車であふれ、カラー写真といえば毛沢東の写真ぐらい。
モノクロの時代だったのだ。スイッチを入れただけで燃え上がるなんてというテレビを作る方が難しいのではないか、と思えるが、この話は誇張ではないのだろう。
肝心の天安門事件の頃にはもう日本へ移住していたが、北京に学生が集まる姿を見て傍観は出来ないと北京まで足を運んでいる。
人民解放軍が登場する頃には実家へ戻っていたので、難は逃れたが、その楊逸さん自身が民主化運動って何なのか意味が良くわからないままだったと言っている。
素直な人だ。
妹を連れて北京を歩き、蘭州ラーメンを食べさせたところ妹がチフスにかかってしまう。親はそんなものを食べさせるからチフスにかかるんだ、と中国に住む人でさえ中国の食に対する信用は薄い。このあたりは今でもそうなのだろうか。

いずれにしても、そんな生い立ちをもってしても楊逸という人なんともあっけらかんとしている。
これがいわば大陸の気風というものだろうか。
次作ではそういう大陸の気風というものが作品に表れたらいいのになぁ、などと思ってしまうのである。

第138回芥川賞受賞 時が滲む(にじむ)朝 楊逸(ヤン・イー)著