アヒルと鴨のコインロッカー伊坂幸太郎


現在の語り部は大学に入学したばかりの平凡な僕。
引越しをして来たばかりの僕は隣人に挨拶をしていきなり本屋を襲撃しようと誘われる。
この物語にはもう一人の語り部が居る。
時期は現在の僕から遡ること2年前。
語り部はペット殺しの三人組につけねらわれる女性の「わたし」。
単にペット殺しと言ってもその残虐さになぶり殺しにしてしまう凶悪な連中。

現在と2年前の物語が交互に登場するスタイルです。
章が変わる毎にまるでコマーシャルで中断されてしまったドラマか映画の様にその続きが読みたくなり、結局途中で読む事をやめられなくなってしまう。そんな小説でした。

物語の主役は2年前のわたし=琴美と河崎とブータンからの留学生ドルジ。

ブータンというと大乗仏教のお国。
「人を思いやるという事を大切にする」のはどんな宗教でも一番の主眼に置いている事でしょうが、それが来世の自分自分の幸せにつながるというのが大乗仏教だったでしょうか。
ですからブータン人のドルジにとっては人が死ぬ事も悲しい事では無いはずなのですが、もの覚えの良いドルジが日本人に感化されるのは早かった様です。

ドゥックユル(雷龍の国)、ブータン。
ドルジはブータンから日本に留学に来ましたが、ブータンにとって日本から来て学ぶ事など本当にあったのでしょうか。
ブータン、パキスタン、カラコルムの僻地へ行った時にも感じましたが、集落の佇まいやその生き方は自然とともに有り、おそらく何百年何千年も前からこんな暮らしをしていたのだろうなぁ、という近代化を否定した様な豊かな生活。

現在と2年前の二つの物語はもちろん繋がっていてだんだんとその繋がりが正体を表す。
そのあたりは『ラッシュライフ』が複数の話がどこで繋がるのかさっぱり分からなかったのとは少し違って、つながるべくして繋がった、というところでしょうか。

そして主人公であるはずの僕は主人公でもなんでも無く、この物語の中ではほんの脇役でしかなかった事に自分の存在に気がつく。
ボブディランの「風に吹かれて」でが無ければつながっていさえしなかったかもしれません。
皆、人生自分が主役だと思って生きているのに語り部でありながら、主人公達のお話の最後の最後のしめくくりのしかも脇役でしかすぎなかったぼくの存在がなんとなく哀れにも思えますが、まぁ人生そんなものでしょう。

さてこの『アヒルと鴨のコインロッカー』が映画化されてこの5月12日から仙台では全国に先駆けて公開されているはずです。
全国展開は6月以降からとか。

この物語、本で読めばこそのどんでん返しがあるのですが、映画化されるとそこがどうなってしまうのかが少し気になります。
そのあたりを映画化にあたってどういう工夫をしたのか、この映画を観る時の楽しみでもあります。

では皆さんここまで読んでくださって「カディン・チェ」。
(ゾンカ語=ブータンの国語です「ありがとう」の意)

あ、そうそうこの文章UPする時にはボブディランの「風に吹かれて」をバックミュージックにいれておいてくださいね。How many roads must a man walk down・・・・

えっ、著作権の問題で無理?しかたが無いなぁ「ラ・ソー」。
(「ラ・ソー」はゾンカ語で 「ほな、サイナラ」の意)

アヒルと鴨のコインロッカー  伊坂 幸太郎 (著)

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