カテゴリー: 河合二湖

カワイニコ



深海魚チルドレン


授業時間の50分さえ持たないぐらいにおしっこへ行きたくなる。
一日の授業時間の合い間の休憩時間には必ずトイレに行っているというのに、それでもなお、授業時間が持たない。
別に勉強が嫌いなわけでもなんでもないのに、ギリギリまで我慢して保健室へ行って来ます、と言ってトイレへ駆け込む。

そんな女子中学生のお話。

授業中以外の時間はそんなことにはならない。
一日中家に居る日には数回のトイレで済む。
入ったばかりの学校でそんな状態なので、休み時間に誰と口を聞くわけでもなく、自然と友達は居なくなる。

彼女の母親はおおらかな性格というのか、無頓着というのか、外交的な性格なだけに娘の悩みが理解出来ない。

彼女にすれば重大な悩みなのに、 「気のせいよ」 の一言で片づけられてはあまりにも可哀そうだ。
明らかに心因性の頻尿なので、しかるべき治療を受けるべきところだろうに。

浅い海に棲む魚は、彼女の母親のように明るく外交的で活発に動き、仲間と群れるが、深海に棲む魚は、重い水圧の中でも耐えられるが、あまり群れず、明るいところよりも暗いところで辛抱できる。

作者の河合二湖さん、現在図書館勤務と巻末の略歴にある。
図書館の司書さんって、たまに来た本を貸し出しの子に「はい、どうぞ」とスタンプを押すだけで、日がな本に囲まれて好きなだけ好きな本を読みたいだけ読んで・・・なんて素晴らしい、なんて羨ましい職業なのだろう、と勝手に想像で思っていた頃があった。
そんな職業なら仕事中に読書ところか小説まで書けてしまうのではないかと思っていた頃があった。
が、実際の図書館の司書さんを観ていてるとその素晴らしいは消え去った。
あれほどハードな仕事をしながら業務時間中に本を読むなんて有りえない。
もちろん公立か私立か、図書館の規模や運営方針によって実態は様々なのだろうが、政令指定都市の市立図書館なんてまるで物流センターの如くだ。
オンラインで入った予約を元にX区のXX図書館からの搬送業務の一員みたいに。
業後には一部の心無い人がした落書きを消したり破れてしまった箇所を修復していたり・・・本を愛する人たちならではの作業である。
最も驚いたのが、彼女ら、いや彼らか、の大半は非正規雇用の方々だったことだろうか。

漫画家志望の子なら好きなことをやってんだから低賃金でいいだろ、と同じ感覚で「本が好きなら非正規雇用社員だろうが、本に囲まれているだけで幸せなんだろ」みたいな雇用側の傲慢さを感じてしまう。
それが市立なら雇用しているのは我々市民ということになってしまうのだろうか。

合い間が長くなったが、そんな司書さんが書いた本なら応援したいな、と言う気持ちが大いにある。

この本を河合二湖さんが執筆中にまさにあの震災が起きてしまった。

本人が「あとがき」に書いている。
「多くのものを失い、傷つき、真っ暗な闇の中にしかいるようにしか思えないときも、どうか、しっかり目を開けていてください。底にいたからこそ見つけられる宝物が、必ずありますから」
と被災者と「深海」を結びつけてしまっているが、なんか違うんじゃないかなぁ。
明るいところに棲む魚はそのように生き、暗い深海が好きな魚がは暗い処、人にはそれぞれの道、生き方があって暗い深海から希望の光が見えたりするが、それは被災者にも主人公にも当てはまるのだろうか。
多くのものを失って、傷ついたかもしれないが、真っ暗な闇の中なんかにとどまっているよりも寧ろ、国が動かないなら、と自らの力で出来得る限りの復興をしようとなさっておられる被災者の方々は少なくとも深海ではないだろう。

主人公も暗い処のままいるのか、暗い処から光を見出すのかの選択肢の前に、本当に彼女は暗い処が棲みがなのかが疑問になる。
確かに人にはそれぞれの個性に合った生き方というものが有り、なんでもかんでも外交的で明るくなければならないものでも無いだろう。
勉強好きは勉強好きなりの。音楽好きは音楽好きなりの。スポーツ好きはスポーツ好きなりの。読書好きは読書好きなりの・・・。それぞれの生き方があってしかるべき。
まだ、ほんの中学一年生だ。
何がきっかけで大化けするかどうかもまだまだわからない。
それどころか、心因性のものも放置すれば、もっと大変なことになるかもしれない。
どんな生き方を選ぶのかの前にしかるべき治療をした方がいいのではないか、と思えてならない。

深海魚チルドレン 河合二湖 著



バターサンドの夜 


児童文学新人賞受賞とあるが、果たしてこれは児童文学という範疇に入るのだろうか。

中学生の女の子が主人公。
それもたぶん中学一年生じゃないのか。
発育がいいせいか、見た目は高校生か。
考え方や発想などはあまりにもしっかりとしていて、そこらの高校生や大学生より上かもしれない。

それでもアニメの主人公に憧れるあたりは年相応か。
ロシア革命を舞台としたアニメらしくその登場人物にあこがれ、そのコスチュームを着てみたい、と。
その題名は「氷上のテーゼ」。

モデルをやってみない?
と声をかけられるがまるで相手にしない。
そりゃそうだろう。
声をかけたのが、場末の町の商店街の本屋の中。
しかも声をかけた相手が読んでいたのは「ロシア10月革命」。
乗って来ると思う方がおかしい。

声をかけたのは同じくその場末の商店街のつぶれかけた洋品店の娘で大人の女性。
亡くなった父母の跡を継いでしまったはいいが、その店で物が売れるわけも無し。
ネットショップをたちあげて、自前のオリジナルブランドを広めようという腹積もり。
そのネットショップのモデルを探していたわけだ。

その女性との掛け合いも面白いが、この本のテーマは、もっと別のところか。

中学生の女の子の他人との距離の取り方。
女の子というのは中学生の時からそんな面倒くさい人付き合いを気にしながら生きるものなのか。
クラスにはいくつかのグループが出来あがっていて、クラスの中の子は誰しもどれかのグループに属さなければ浮いてしまうような。
お昼ごはん一つとったって誰だれと一緒に食べるかどうか、どのグループに入っているのかだとかがそんな重大事なのか。
政治家の派閥じゃなるまいに。

同年代の男たちには到底理解の範囲外だろう。

この主人公の女の子はそういう面倒な付き合いから、一歩身を引いたところで生きたいと思っている、つまりは本来ならごく一般的な思考回路の持ち主だと言うことなのだろうに。

ただ、一歩引いた先がアニメのコスプレというところがまたユニークだ。
結局、他人と何か一線を引いてしまう人は何かのオタクでなければならないのだろうか。
結局そういう世界が好きだから、逆に一歩引けることが出来るのだろうか。

ブランド造りの大人の女性は彼女をいっぱしの存在としてちゃんと認めてくれている。
周囲の女子中学生よりやっぱりこの子の方がはるかにまともなんだろう。

バターサンドの夜  河合二湖 著 講談社児童文学新人賞受賞