檸檬梶井基次郎


高校の教科書で初めて読んだ『檸檬』。
鳥肌が立つほど感動して興奮しました。
しばらく図書室の画集を積んで檸檬を置こうかと思ったくらいその世界に酔いました。
初めて読んだときから10年以上が経って、学生の時のようには感動できないかと思ったら、今のほうがその世界にどっぷりはまってしまいました。

ざっとあらすじ。
体を病んだ主人公が、不安定な心と感性で世界を眺めます。
今まで好きだったものに興味がわかなくなり、はかなく色彩豊かなものたちに心を惹かれます。
『えたいの知れない不吉な塊』に圧えつけられる日々。
ある日、何かに追われるように主人公は街を彷徨います。
そんな道すがら、気に入りの果物屋で檸檬を手にします。その途端、心が少し軽くなったような幸せを感じて、うそのように軽い足取りで街を闊歩する主人公。
かつては好きだったけれど今は入ることが憚れる丸善へ今なら入れるのではないかと足を踏み入れますが…。

ひまわり、カンナ、花火やびいどろ。
物語の始まりから美しいものの名前が次々に並べられて、頭の中にたくさんの色が飛び交います。
それらは主人公の性格や病に重なって、ひどくはかないものたちに感じられます。
でも透明で消えてしまいそうなものたちの中に突然はっきりとした輪郭を持つ檸檬が登場すると、急に物語の中の世界がはっきり見えるような気がするのが不思議です。

檸檬の力で踏み込めた丸善。
檸檬のおかげで明るくなりかけた心にどんどん雲が広がっていくように、手に取りめくっては閉じてを繰り返され積み重ねられていく画集。
画家によって全く異なる画集の厚みや色。重なっていったらどんなにたくさん色がアンバランスに重なり合っているのだろうかと想像します。
でもその上にのせてみた檸檬が、主人公のアンバランスな心に一瞬の安定をもたらしたように画集に絶妙な安定を与えます。
『見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。』が一番好きな一文。
キーンでもなくカーンでしかないと思うのです。
でもその安定は主人公の心と同じ、長く続く平穏ではなくて爆発前の一瞬の静けさ。
檸檬をそのままに丸善を後にする主人公は、檸檬が爆発して美術棚を吹き飛ばしたらという想像をします。
檸檬で爆発する色たち。
冒頭から連ねられてきた美しいものたちが爆発して飛び散って、いっそう儚くそして美しく感じられるのです。

この物語を読んでいると、とにかくその世界に酔ってしまうのです。
あまりに物語が完璧に完成しているように感じられます。
読み終えたあとは、美しいショーを見てその余韻に浸っているような気分になります。

うまく説明できませんが、心が弱ったとき、元気なときなら気づかなかった色や物事に目がいって、感動したり傷ついたりします。でも元気になるとまた気づかなくなってしまって、いつのまにか感動したり傷ついたりしたことまで忘れてしまうことがあります。『檸檬』の物語には、心の中にいつかあったのだけど消えてしまったような、ものすごく繊細で傷つきやすい何かが形になってて、それが檸檬を通じて自分と繋がるようなそんな気分になるのです。

感傷的になってしまいますが、世界にはまりすぎた自分にも酔える一冊です。

檸檬 梶井基次郎 著