塩狩峠三浦綾子著
「塩狩峠」は明治時代にあった実話を元に書かれたものです。
塩狩峠に差し掛かった列車の客車の連結器が外れて暴走しかけたところへ、鉄道職員でキリスト教徒であった長野政雄という人物が線路に身を投げ、客車の下敷きとなり乗客の命が救われたという実際に有った話を元に書かれたのだといいます。
キリスト教は自分は人に何をしてあげるかを考えなさい、と教えると言います。
その究極でしょう。
自らの命を差し出して人の命を救う。
この史実を知るにつけ、より詳しく当時を良く知る人の話も聞き三浦綾子さんは感動してこの小説を書いたのでしょう。
それにしても、そこまでくそ真面目な人物を描かなくても、と随所に思ってしまうのは私の心が穢れているからでしょうか。
この主人公の青年がに吉原へ連れて行ってもらう途中で走って逃げ帰り、危うく罪を犯してしまうところだった、と思いつめるのはまだクリスチャンになる前の事です。
北海道へ行き電鉄会社へ勤務。仕事は真面目。要領良く卒なく仕事はこなし、下の人間へ絶対に責任をかぶせない。
どこかの偽装事件の料理屋さんとは正反対ですね。
同僚が仕事場で盗難事件を起こした際、上司の家へ行って土下座をしてまでして彼の復職を願い出る。
「人に何をしてあげられるか」を体現したわけです。
しかし本当にそうなのでしょうか。
何かをしてもらう側の人間は何かをしてもらって嬉しいでしょうか。
受ける側は見返りを期待をしない無償の与えなど本当に欲しいものなのでしょうか。
「何をしてあげられるかを考えなさい」などと営業会社の部長あたりが営業マンに言っているのとは訳が違う。営業マンには当然その見返りに営業を成約させる、という事を期待しての事でしょうから。
私なんぞは俗物ですから、どうもそのあたりの考えはそぐいそうにないです。
「人に何をしてあげられるか」よりも孔子の言うところの「人にされたくない事は自分も人にするな」の方が自分にはそぐいますね。
私は人から無償の何かをしてもらいたいとは思いません。
従って「人にされたくない事は自分も人にするな」の教えを守るのでれば「人に何をしてあげる」などというおこがましい事はしてはいけないことになってしまいます。
ちょっと屁理屈ですかね。
「人に何をしてあげられるか」だけではありません。この主人公の倫理から言えば、事故で亡くなるまで童貞を貫かなければならない。
前回登場の曽野綾子さんとは同じ綾子という名前で共にクリスチャンで且つ作家。
この題材を曽野綾子さんが扱っていたらどう書いたでんでしょうね。
少なくとも主人公をこのような聖人君子にはしていないような気がします。
とはいえ、三浦綾子さんがこれを書いたのはキリスト教の月刊誌への連載に向けてだったという事です。
信者向けの書き物だからこそ、一般の人が読んでいてどうにもはなについてしまうだろう主人公が熱心に布教活動を行うような事も平気で書けるし、同じ信者に尊敬されている主人公の題材となった人の事をちゃらんぽらんな人物に書くわけにもいかなかった、という事なのでしょうか。
この本からはクリスチャンをヤソと呼んで蔑んでいた明治のある時代の風景がはっきりと見えて来ますし、長野政雄氏が列車に身を投げた事によって、ヤソもまんざらではないなと地元の旭川では信者の数が増えた、といいます。
旭川出身のクリスチャンである三浦綾子さんにとってこの話は書き残さなければならない使命のようなものだったのではないかと思ったりするのです。