カテゴリー: 吉田 修一

ヨシダシュウイチ



怒り


房総半島の猟師町、魚市場に勤める父には20歳をとうに過ぎた娘が居るのだが、ちょっと飛んでる娘で、父は娘にまともな幸せなど訪れないんではないか、と諦め気味。

そこへふらっと現れた身元のわからない男。彼をアルバイトとして雇うのだが、娘はその男と徐々に親しくなり、とうとう一緒に暮らそう、という運びとなる。

方や、沖縄の波留間島という離島へ引っ越した母と高校生の娘。
その娘が友人とボートで行った無人島で一人のバックパッカーと出会う。
彼は自分を見た事を誰にも言わないで欲しいと娘に頼み、彼女は忠実に約束を守る。

はたまた、東京の大手通信会社に勤める男。
彼はゲイだ。
ゲイたちが利用することが多いサウナで出会った一人の青年。
彼が行くところが無い様子なので、自宅へ招き、同棲の様な生活を始める。

全く無関係な三組の登場人物たちが交互に登場する。
こういう時ってどっかで交わって行くんだよな。
大抵、交わってからの方が話が面白くなって行く。

だがこの話、三組の登場人物たちは最後まで交わらない。

三組に共通するのは、いずれも過去の素性が知れない男が表れ、それぞれの登場人物たちとだんだん親しくなって行くところ。

一年前に東京八王子で夫婦惨殺事件が起きて、容疑者はすぐに特定されるが、行方は杳として掴めず、捜査は難航していた。

警察はテレビを使い、容疑者の情報を集めようとする。

房総のアルバイト男、ゲイの同棲男、沖縄の離島のバックパッカー男。
それぞれ、過去の経歴も何も一切わからない男たち。

それぞれの周辺が、テレビの報道などを見て、ひょっとしてあの人が?

と疑心暗鬼になって行く展開なのだが、少々長すぎやしないか。

確かに3つの物語を同時並行しているようなものなので、少々長くはなるだろうが、
上下巻で引っ張らなくても良かったんじゃないの?

これが映画化されたと聞いた時は少し驚いた。
映画にするにはちょっと地味な話じゃないか、と思ったのだが、かなり評判良かったらしい。
邦画って地味な方がいい作品になるのかもね。

怒り 吉田修一著



横道世之介


何のことはない、大学一年生の1年間の生活を描いたお話。
まったく何のことはない、話なのだが、不思議と心に残るお話である。

滅多に合わないがたまに昔の同級生と会ったりして、「あぁ、そんなやつ居たよなぁ」みたいな、取り立てて目立つ存在でもない代わりに、皆の中である種の存在感を残しているやつ。そんなやつって案外いたりするものだ。

世代は少し違えど、今から16~7年前が舞台になっているだけに、いろんな出来事が懐かしく被っているせいもあるのかもしれない。
話の途中に大韓航空機爆破事件のニュースが出て来たり、ペレストロイカの話題しかり、クルーザーを乗り回すバブル時代ならではの若者が出て来たり、地上げ屋が出て来たり、ボートピープルが長崎の大村海岸に漂着したり、雑誌のタイトルや映画館で上映している映画のタイトルが妙に懐かしかったり。

大学へ入学したての1回生。これから自分が何を目指しているのか、まだまだこれからそれを見つけようという時代。

これは案外著者の回顧物語なのかもしれない。
舞台となる大学、著者の略歴の大学ではないのだろうか。

この一見懐かしいと思われる風景こそ、著者の学生時代をなぞっているのではないだろうか。

この本が出版されたの2009年の9月。
バブルはもうとうの昔に破裂し、登場人物たちは皆それぞれに歳を経て、ラジオのDJになった女性は、六本木ヒルズにあるスタジオから、「リーマン・ブラザーズ」の看板をがまだはずされていない、云々を話題にしている。
そう、リーマンショック後の時代に生きる人たちが、16~7年前の一時期に出会った横道世之介というどこにでもいそうな若者を懐かしく思い出す。

世之介と青春時代に出会わなかった人と比べて、出会った自分達は何か得をした、という表現は少々大袈裟かもしれないが、何か安心出来る、ホッとする、今どきの言葉で言えば「癒される」なにかをこの横道世之介という若者は持っていたのかもしれない。

何人かの友人たちや先輩や恋人?が登場し、世之介はともかく、彼らはそれぞれに後の人生を生きて行く。
その中の話にはいくつか置いてけぼりになったままのような話もあるのだが、まぁそれはそれで、読者で勝手に想像しろ、ということなのだろう。

それにしても印象に残るのは与謝野祥子という同じ世代の女性。
友達との待ち合わせに運転手つきの黒塗りの高級車で現れ、話し言葉も貴族か華族というほどにお上品。

そうかと思うととんでもなく行動力があったり、世之介の帰省に先駆けて世之介の実家へ赴き、世之介の母の手伝いをして、と甲斐甲斐しく料理上手だったり、といろんな意味で常識をぶっこえた存在。
彼女のどこをどうしたら、アフリカの難民キャンプで日焼けしながらたくましくワイルドに働く女性に変貌するのだろう。

人間は、変われるものなのだ。
特に大学1年生の頃がどうたったとしたって、15年も20年もすれば、驚くほどに変貌を遂げる、ということなのだろう。

今や新聞を手に取ると最悪の就職氷河期を超える、だとか、就活をする学生をインタビューするニュースではもう100社も落っこちてとか、大学生にとっては暗い話題ばかりが目に飛び込んで来る。

なんとか彼らに勝負をするチャンスぐらいはあげる社会で有りたいものだ、とつくづく思う。
学歴一つ、履歴書一つ、面接一つで彼らの何がわかるのか。
与謝野祥子のようにどんな大化けするかもしれないのである。

ちょっと蛇足脱線気味だったか。

『横道世之介』 吉田 修一著(毎日新聞社)



7月24日通り


どうにもねぇ。
どうもタイトルを見ただけで本なぞ買ってしまいますと、こういう思ってもみなかった本に出会ったりしますね。

自分はこういうポジティブでない女性が主人公の本というのはあまり趣味には合わないのですが、と思いつつも・・どうしてでしょう。結局読み出したら最後まで引っ張られてしまいました。

吉田修一っていう人、男性なんでしょう。
それとも男性のペンネームを持った女流作家だったりして・・。

どう考えたって女性が書いたとしか思えないのは自分の偏見でしょうか。
どうしたらここまで女性に成りきれるのでしょう。

自分の住んでいる街を密かにリスボンになぞらえて、ジェロニモス修道院前のバス停でバスに乗り、ガレット通りにある会社へ出勤する。
地元の公園がコメルシオ広場に、海沿いの県道が7月24日通りに、地元の駅が中央駅に、と全ての場所がこの主人公によってリスボンの地名に置きかえられて語られて行くので、日本の地方都市が舞台のはずなのに何か全く違う風景を想像してしまいます。

それにしても何故ポルトガルのリスボンだったのでしょう。
ポルトガルと聞くと鉄砲伝来を思い出してしまう。
なんと単純。
リスボンと言えば壇一雄が愛した街ではなかったでしたっけ。
壇一雄はもう完璧にリスボンに溶け込んでいましたね。
普通の会社勤めなら働いているはずの平日の昼間に自前の手料理のネタなどを買いプラプラと歩き回るものだから、魚屋のおじさんなんかにも人気者になって街を歩いているとそこら中から気軽に声をかけられたりしていました。
気さくな人柄の多い街で壇一雄を読んでいるとリスボンに住みたくなってしまう人の気持ちが良くわかります。
リスボン、リスボンと書きましたが、壇一雄の愛した街は正確にはリスボン周辺の街だったかもしれません。
壇一雄の本は大方読みましたが、この本との共通性は皆無でしょう。

それにこの女性、海外旅行はハワイ以外は行った事がないという事が読んで行くうちにわかってくる。

そうすると余計に何故、リスボンだったのだろう、という疑問が湧いてくるのですが、そういうところが作者のうまいところなのでしょうね。

行った事もない街を想像して自分の街にそっくり当てはめてしまうなんてなかなか男の主人公にはそうそうさせられないですよね。

この女性、聞き手上手で相談されやすいタイプ。
取り立てて自分を素敵だとは思っていない。

それに対して彼女の弟は中学、高校と女子からの人気者で大学生になった現在も会社の後輩から慕われている。

同じバスに乗っただけで後輩が大はしゃぎをするほど。
それだけ小さな街なのでしょう。

それにしても初めて告白されたのが大してかっこいい男で無かったというだけで悔し涙にくれるものなのでしょうか。

このあたりは男性には全く想像のつかない世界なのであります。

カッコいいはずの弟が付き合っているのがみすぼらしい不似合いな女の子だと知った時の怒りに似た心境もも男性にはおそらく全く想像のつかない世界なのであります。

その不似合いな女の子に自分をかさねてしまう気持ち、これも男性には想像のつかない世界なのであります。

しかしながら、世の中アイドルやモデルばかりじゃあるまいし、自分を美人で素敵な人と思い込んでいる人ばかりではないでしょう。
という事はこの本は世の中の大半の女性の気持ちを代弁しているのかもしれません。

男性にはなかなか理解しづらいですが、女性が読めばかなり感情移入してしまうのかもしれませんね。

この本、既に映画化されていたようです。
映画は見ておりませんが、男性にも見てもらうためにはおそらくかなり脚色されたのではないか、などと思ってしまうのであります。

7月24日通り 吉田 修一 著