カテゴリー: ア行



ROCKER


主人公から「エイくん」と呼ばれる高校教師。
こういう高校教師最高だと思います。
何と言ったって相手にしているのは高校生。
その高校生の素行がどうだろうが、本来そんなもの高校の先生の知ったこっちゃないだろうに。
何か事ある毎に教師と学校がマスコミに平謝りする風景をあまりにも見慣れてしまっていることに気がつく。

この「エイくん」は、そういう意味では本来の高校教師なんじゃないのだろうか。
部活動の監督を依頼されたって、そんなことが俺の知ったことか!と一蹴。

部屋にはエッチビデオが散乱していようが、そこへ高校生が訪ねて来ようがおかまいなしだ。

それでもなんだかんだとストーカーをしている高校生が結局真っ当な高校生になってしまうのだから、プライベートはノータッチなようで、結局その影響力が発揮されている。

主人公はその高校教師のイトコにあたる女子高校生なのだが、この人の個性も強い。
人との間に壁を作ってその中には容易に立ち入らせない。

この主人公と「エイくん」との掛け合いがテンポも良くなかなか愉快で楽しい。

「人に教えてもらうことに意味はない」
などとギターを教えることをいろいろな屁理屈をこねて拒否したりするのだが、案外に正鵠を得ている発言だったりする。

主人公もまだ若いので将来何を目指すのか、などの考えはない。
この高校教師も何かを目指しているわけではない。
せいぜい場末の喫茶店のマスターになれればいいぐらいに思っている。

そこへ異質な登場人物が現れたりする。
女性格闘家。

「何かを目指す人間というのは、やっぱ違うんだよ」
と高校教師。

この人、発言だけを聞いているといい加減極まりないように思えてしまうのだが、いつもツボをちゃんと押さえているのには感心する。

結婚詐欺師を見抜いてしまったり・・・etc。

ちなみにこの本、ポプラ社小説大賞優秀賞受賞作なのだそうだ。

この本を最後まで読むとそのあと味の良さと共に気がつかないうちに「スタンド・バイ・ミー」を口ずさんでいる自分に気がついたりする。

ROCKER  小野寺史宜 著 第3回ポプラ社小説大賞優秀賞受賞作



特命捜査 


この作者、かつて警察の鑑識とかそういう組織にでも居た人なんじゃないのだろうか、などと思わせるほどに警察内部の言葉などに詳しい。
死亡推定時刻の算定の課程、射撃残渣などの箇所も全く外部の人間が描いたとは思えないほどに描写が精密で、その臨場感があふれる。

招き猫の焼き物の工房を営む初老の男性の死体。物語はそこから始まる。
その被害者は実は10年前に公安を退職した人物だった。

その10年前に起こった出来事というのが、終末論を唱えているカルト集団が、自ら武器を製造して蓄え、最後には警察に施設を囲まれた中、教祖をはじめ集団自殺をしてしまう。
その残党のグループを根こそぎ、片付けたのが公安だった。

なんともあのオウム事件はいろいろな小説に影響を与えているらしい。

その公安の捜査官と警視庁、警察庁の刑事というのは根っから相性が悪いらしい。
刑事達は公安をハムという蔑称で呼び、
公安の捜査官は選民意識が強く、刑事達を「ジ(事)」という蔑称で呼ぶ。

この小説、そういう警察ならではの用語が散りばめられ、麻生幾の『ZERO』なども彷彿とさせるようなタッチで中盤から終盤の手前まではまではグイグイと引っ張り込まれるのだが、終盤がどうもなぁ、と残念でならない。

もちろん、結末を書くような愚は犯さないが、おそらくこれとこれは繋がっていたんだろうな、と徐々に想像を逞しくしていたものが、え?それとこれも実は繋がっていて、これとあれも実は繋がっている?ご都合主義と言う言葉を使いたくは無いが、何やらコナン探偵ものみたいなくっつけ方をしていかなくてもいいじゃない、と言いたくなってくる。
小説の中で「事実は小説より奇なり」を使うのはいかがなものなのだろう。

とは言え、そのような感想を持つのは少数派だろう。
何と言ってもそれまでの緻密な筆致があるだけで、まぁ充分に楽しめると言えば楽しめる小説である。

特命捜査  緒川 怜 著 光文社



カデナ


ベトナム戦争当時の沖縄が描かれている。
『あの夏、私たちは4人だけの分隊で闘った』という本の帯にはかなりそそられるものがある。
実際に読んでみると『分隊で闘った』の文言から想像するイメージとはだいぶん違うものだったが、もちろん期待を裏切る本ではなかった。
タイトルの『カデナ』とは言わずもがなかもしれないが沖縄の嘉手納米軍基地のあるあの嘉手納のことである。

フィリピーナと米兵の混血児で米国籍を持ち、米空軍に籍を置く女性。
戦時中に沖縄からサイパンへ行き、サイパン陥落前時にアメリカ兵に収容され、戦後、沖縄へ帰って来た朝英さんという男性。
米軍基地でロックバンドを演奏する中の一人である若者。
それぞれが交互に語り部となってストーリーは展開される。

中でも朝英さんの語り部の箇所は戦時中からの誰かの体験談を聞いているが如くに読みごたえがある。
十三歳で父親の出稼ぎで家族と共にサイパンへ渡り、自身もサイパンで機関士見習いとして働き、アメリカのサイパンへの空襲が始まると父母は沖縄へ帰る船に乗り、硫黄島沖でその船は潜水艦に沈められ、乗客500人全員が死亡。
兄は徴兵にとられ、戦死。
沖縄へ帰って故郷を訪れてみると、親戚をはじめ知り合いも全て失ってしまったことを知る。
知っている人たちの中で生き残っているのは自分だけ、という心にぽっかり穴の空いたような状態。
結婚した後も朝英さんには子供が居ない。
つくらないのか、出来なかったのかは不明だが、世の中には先祖から引き継いだ家を子や孫へと増えていく家もあれば、たった一人生き残った自分の一家はここで閉じるべき家なのだと思っている。

三人の語り部がいるがこの人の語りの箇所の文体はなんとも重みがある。
こんな話を作者が想像で書いたとは思えない。
おそらくこの話を語ってくれた実在の人が居たのではないだろうか。

長引く戦争の最中、米軍の指揮官の奥さんの中に、平気で「核を落として終わりにすればいいじゃない」などと言う人が登場する。
まさか、と思うがどうもまんざら議論に上がらなかったわけでもないのかもしれない。
長崎・広島への原爆投下を指揮し、東京や主要都市の人々に対しての焼夷弾で周囲を焼け野原にして逃げ場を失わせた上で爆撃して民間人を皆殺しにする作戦をたてたカーチス・ルメイは戦後、勲章をもらい、昇進した。
そのルメイの部下だったマクナマラがその当時のアメリカの国防長官だったのである。

米空軍の爆撃ももうすぐ終わりになるという手前の最後の二週間でなんと150機で700回の出撃。落とした爆弾はなんと2万トンだったという。
2万トンと言われてもなかなかピンと来ないものがある。

実際に空軍基地に居た人たちも同じだったようだ。
B-52のばかでかい爆撃機には最大27トンの爆弾を搭載できるのだという。
爆撃機は一旦飛び立ったら、その27トン全てを落として来なくてはならない。
落とし漏れを抱えたまま帰って来ることは非常に危険で着陸時に爆発したらそれで一巻の終わりだからだ。

だから、爆弾落下と落としきって帰ることだけに専念するパイロットたちにも落下した後の状態など実感が無かったかもしれない。

そのB-52一機が離陸に失敗する。
その先には核爆弾の弾薬集積所がある。だから機長はゲートにぶつけて止めた。
そしてゲートにぶつかると同時に大爆発。
辺り一面が火の海となり、地面から空までが燃え、雲底が真っ赤になった。
その状態を見て初めて基地の人たちもこのB-52一機の搭載する爆弾の凄まじさを知ることとなる。

この物語はフィクションであってもそこで描かれている情景はフィクションでは無く、ノンフィクションなのではないだろうか。

ベトナム戦争が長引くに連れて、厭戦感の漂う中、嘉手納基地から飛び立ち、ハノイへ向かう爆撃機乗りの心境や基地の人びとの話、作者はどうやって取材したのだろう。

米軍基地が嫌いでありながらも米軍基地があることで仕事を得ている人たち。
彼らは基地があればあったで「なんとかなるさー」と生き、ベトナムの戦争終結で基地がなくなって、仕事もなくなるかも、に関しても「なんとかなるさー」と大らかではありながらも複雑な沖縄の人々の心情。

本書は4人だけの分隊で闘ったというストーリー展開を描きながら、やまとんちゅう達が東海道新幹線の開通、東京オリンピックの開催、大阪での万国博覧会と高度経済成長を謳歌している最中で、やまとんちゅうの人びとの内、一体何人がこのうちなーんちゅの人びとの生き様や、沖縄で起こっていたことを知っていただろうか。
知り得なかった沖縄での戦後史を自ら沖縄へ移住してまで取材をし、実感した作者ならではの沖縄史なのではないだろうか。

カデナ  池澤夏樹 著(新潮社)