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物乞う仏陀


若者が海外旅行をしなくなって来た、と聞く。
海外なんて言葉も通じないし面倒臭い、とか。
いや、寧ろ海外旅行へ行くだけの金銭的余裕が無くなってきたからなのではないか、とか。

今年のゴールデンウィーク、新型インフルエンザ騒ぎが丁度GWに合わせたかの如く表れたので、海外旅行へ行く人には水を差したような格好となった。
それに輪をかけて高速道路どこまで行っても1000円の措置で国内の観光地はさぞかしどこも賑わったことだろう。

このご時世だけに国内が潤うことは多いに結構なのだが、若者が海外へ出なくなったということはなんとも悲しいことである。

海外へ出る好奇心を失ってしまうということは、そこでしか見えないもの。そこでしか感じられないもの。そこでしか体験できないもの、を得ることを放棄してしまっていることになるのではないだろうか。

もちろん、平凡な観光ツアーでありきたりの観光地巡りと土産物屋巡りだけで、「行って来ました」という写真を撮り、「行って来ました」というお土産を買うだけの旅行などしても得るものはあまりないのかもしれないが。
それよりも国内であれ、海外であれ、自分の足でする旅というものの方がはるかに価値がある。

自分の足でする旅、それも特定の目的を持って。
「物乞う仏陀」という本はそんな目的を持って旅をして来た若者のルポルタージュである。
就活を経て入社した会社を辞め、数千ドルの預金を元手に貧しい国での障害者という人達に焦点を合わせて、取材を行う。

時には若者ならではの強引なインタビュー。なんとか答えを引き出そうとする余りに相手の気持ちを慮ることを忘れた時もあっただろう。
それでもこの若者の得たものは余りに大きく、そこから発信される情報のなんと貴重なことか。
何百、いや何千という障害者や物乞いをする人にインタビューを試み、彼らの生活を直接見て、生い立ちを聞いて・・。本来の若者が持つべき猪突猛進的な面もあるが、とにかくそのエネルギーが素晴らしい。

社会福祉の親善大使だとかの名目でアフリカのハンセン病患者の施設へ訪れた某有名人が白い手袋もはずさないまま、彼らに触るどころか近づきもしなかった、というようなことをかつて曽野綾子女史が書いておられたが、そんな偽善的行為のかけらも石井光太氏は持ち合わせていない。

カンボジアでの地雷による被害者。物乞いをする人達への取材。
ここではかつてポルポト政権時代のクメール・ルージュによって大量の人民が殺戮された。クメール・ルージュは知識層と僧侶を殺戮し、次にユートピア建設の足手まといになる障害者も殺戮した。
その時代を生き抜いた障害者にはどんな人に言えない過去を背負って生きて来たことか。

ベトナム戦争時代に大量に投下された爆弾の不発弾が未だにそこらじゅうにあるラオスの少数民族の集落。

タイのバンコクという大都会の中を生き抜く障害者。

ベトナムで仏の様な老産婆と出会い。

ミャンマーではハンセン病患者の集まる集落を何度も訪れ、ついには追放される。
外国人に自らの国の恥部を見せたくない、というのは良くあることだ。

スリランカで民間で自ら障害者施設を立ち上げた人を訪れ、ネパールでは麻薬に溺れるストリートチルドレンを嘆く。

なんと言っても圧巻はインドである。

元々悲惨さに大きい小さいもないのだろうが、それでも尚、悲惨さの桁が違うように思えてしまう。
東南アジアとインド以西というのは貧しいものに対する扱いが元来違うような気がする。
東南アジアとて貧しいものは辛い事も多々あれど、貧しさを楽しむだけの救いの様なものがあるが、インド以西にはその救いが見当たらない。

ここでは石井氏はかなり危険な挑戦をしている。
その上で得た取材結果である。

ムンバイでは路上生活者がマフィアの手先に襲われ、手や足を切断されて、物乞いのに持って来いの姿にされて働かされる。
その現実を目の当たりにし、さらにチェンナイという南西部の町ではレンタチャイルドを取材する。
そこでは子供をさらい、女物乞いに貸し出す、というビジネスが行われている。
そして、その子供達が5歳になったら手や足を切り落として、自ら物乞いとして稼がせる。

子供さらいの話はこういう地域では人づてに噂として聞くことは何度もあったが、その現場、まさに子供達を飼っておくコロニーを生で取材し、手足を切断する場所までも目の当たりににして来た取材者などかつていただろうか。

なんとも凄まじい。

かつて山際素男氏の「不可触民(アンタッチャブル)」という本に出会ったことがある。
カースト制度の最下層よりも下の層はどんな仕打ちを受けようが何をされようが訴えることも出来なければ、抵抗も何も出来ない。そんな層の人達を書いた本だった。

さらわれた子供達が不可触民だったのかどうなのかは知る由もないが、いずれも「救い」というものがない。
どこの貧しさよりも桁違いなどうしようもない世界がそこにはまだあるのだった。
彼らが日本で今騒いでいるインフルエンザの事を知ったらどう思うだろうか。
いや、そんな他人事などどうでもいいに決まっているか。
全くの異世界なのだから。

東南アジアまでの話で終わっていれば、安直な支援などよりも自立する道を・・などと感想も結べたのであろうが、このインドの話はもはやそんなレベルの話を超越してしまっている。

物乞う仏陀 石井光太 著(文芸春秋)



砂漠


「俺達がその気になれば、砂漠に雪を降らせる事ぐらい余裕で出来るんですよ」

その本意を汲み取ることが出来たのなら、なかなかにしてインパクトのある言葉ではないでしょうか。
この本の主題がこの言葉に集約されているようにも思えます。
この言葉、大学の新入生が交流を深めるための宴会に参加した西嶋という男の発言。
この西嶋君、遅れて乱入しながら、アメリカの中東への軍事介入を大声で非難したかと思うと地球温暖化を嘆き、宴会という場のTPO(Time,Place,Occasion)を全く度外視した男。

少し前の言葉ならKYというやつでしょうか。空気が読めない、のではなく空気を読まない男。それが西嶋君なのでしょう。

今頃の学生の言葉で言えば「イタイやつ」ということになるのでしょうか。
「アイツ、イタいわー!」と聞こえてきそうです。

そのイタイ男、西嶋というキャラクターを無視せずに仲間にとして扱うのが、覚めた美人キャラの東堂、超能力があるかもしれない南、ちょっとはすっ葉な鳥井、そして主人公の北村という物事を俯瞰して見る、と言われる男。

ここで既に東堂、南、西嶋、北村とトン、ナン、シャー、ペイが揃ったあたりで何か予感めいたものが頭をよぎるのですが、案の定、麻雀の場面が何度も出て来ます。
そのあたりもなかなか読めますよ。
確率論 VS 麻雀とはこうあるべき論 なんてね。

世の中は平和であるべき、とピンフのみでしかあがろうとしない西嶋君。
まぁピンフは麻雀の基礎でもあり王道でもあると思えなくもないのですが、何故か西嶋君はいつも一人負け。

その大学生活を四年共に過ごすなかで、寒い、痛いはずの西嶋君の影響をだんだんと皆が受けてしまっているところが面白い。
俯瞰的な立ち位置のはずの北村君も感化されている。

この西嶋君、単なるKYな平和論者なのではないのです。
「彼方で人が難破している時に手をこまねいてはいられない」男であり、常に行動が伴う男。
「人間とは自分に関係の無い不幸な出来事にくよくよする」男でもありつつ、目の前で行われる空き巣犯人達を放置することなど到底出来ずに勇猛果敢に立ち向かっていく勇気のある男でもあるのです。

友人が落ち込んでいる時に、その窓から見えるビルの電灯を麻雀の「中」に見立てて、ビル全体に「中」を浮き彫りにするなどという途方もない根回しをして元気づけてやるような、到底KYとは思えないことまでしでかしてしまう男。

だからこそ冷めた人間も感化される。

歳こそ近いが既に社会人になっている女性がつぶやく。
「あなたたち、学生は小さな町に守られている」と。
その外の世界は一面、砂漠が広がっている、と。
一旦、社会に出ればそこは砂漠ような過酷な世界が広がっているのですよ、と暗に諭したのでしょう。
彼らはその砂漠にどうやって、どんな雪を降らすのでしょう。

この話、伊坂氏のいつもながらの東北、仙台が舞台。
この大学のこの仲間達はまぎれも無く、東北大学法学部なのだと読めます。

まさに著者の出身校。

著者は自らの学生時代と何かをかぶらせたのでしょうか。

読後、サン・テクジュベリが読みたくなってしまいました。

「人間にとって最大の贅沢とは、人間関係における贅沢のことである」

砂漠 伊坂幸太郎 著(実業之日本社)



赤毛のストレーガ


今でこそ、幼児に対する猥褻な行為や幼児のポルノなどに興味を持つ人間がこの世にはいるものなんだ、ということが一般に知られるようになった。
こういう趣味の人がこの日本において最近になって表れ始めたのか、それとも元来そういう人達は存在していていたのが、主にインターネットという媒体によって徐々に表面化して来ただけなのかは不明である。

登場する主人公であるバークという男。
ファーストネームが無い。
ものごころついた時には両方の親が居らず、従って親の顔も知らない。
少年院に入っていたり、成人してからも犯罪という世界に身を置き、塀の中と外を行ったり来たりのアウトロー。

一瞬、リチャード・スタークの描くパーカーを思い浮かべたが、パーカーは簡単に刑務所に入るようなドジは踏まない。

そのバークがポン引きから子供を救い出したり、幼児猥褻写真を売り物にする輩に立ち向かって行く。

これが書かれたのはまだインターネットも普及していない時代。
かろうじてモデムを使ってのBBS通信などがマニアの間で行われていた時代である。

その時代にもアメリカにはその手の趣味を持つ人達がかなり居たのだろう。

話の中に登場するマニアの人物に「子供を愛して何が悪いのか、実は政府のかなりの上層にもそういうマニアは居るんだよ」と言わせている。

バークの周辺に表れる人というのがまた多様なのである。
武道をたしなむモンゴル系の男。耳は聞こえないが滅法強い。
中国系移民の行きつけの店のママ。
ゲイの秘書役。
ユダヤ系の男も居れば、もちろん黒人も居る。
はたまた、ナチの残党みたいな連中。
こっちの友達の友達はこっちの友達の最も忌み嫌う敵だったり・・。

民族も宗教も肌の色も価値観も何もかも多様そのもの。

オバマ新大統領はこの多様な人達で成り立つ国を一つにしようと言う。
自らも「我々の多様な出自は強みであって弱みではない」と言い切る。
「かつての憎しみはいずれ消えて我々を分け隔てた壁はいずれ消えるのだ」とも。

並大抵のことではない。

9.11テロ直後の高揚した時期でもないのに、あの多様な価値観の中でのあれだけの高支持率を得ている、という事は驚愕に値する。

自らの父親がケニア出身で尚且つ、かつてはイスラム教徒だったなどとなれば、多様化を強みだ逆に言えば言わざるを得ないか・・・、などととんでもない方向に話が飛んで行ってしまった。
ここらで締めくくっておこう。
アンドリュー・ヴァクス、もっと読みたくなりました。

赤毛のストレーガ アンドリュー・ヴァクス 著 佐々田雅子 訳(早川書房)