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薄紅天女


『空色勾玉』『白鳥異伝』とこの『薄紅天女』で勾玉三部作と言われる。
三部作と言ってもストーリーとしては各々が独立しているので、続けて読まなければ、という心配は無用である。

『薄紅天女』は前2作から時代をはるかに下り、平城京から長岡京へ遷都した後から平安京遷都までの時代が背景。

前2作が全く伝説の時代を舞台としていたのに比べると、さすがにこの時代ともなると中学・高校生の日本史の教科書に登場して来る様な人物も描かれている。

長岡京遷都、平安京遷都となれば、その時の皇(すめらぎ)とは桓武天皇であろう。
坂上田村麻呂は登場するは、藤原薬子が男装で登場するは、若き頃の無名の空海は登場するは、と登場人物は多彩である。

前2作は日本の神話時代を舞台にしているので、そこを物語化するとかなりその神話と関わりの深い神道をいじる様な何かタブーに触れる様な分野だったが、平城、長岡京まで時代がくだれば、そういう心配もないだろう。

長岡京遷都は薄命だった。
長岡京造営時に尽力した人物が(藤原薬子の父)が暗殺された為、桓武天皇の弟早良親王嫌疑が及び早良親王は配流の後、恨みを抱いたまま死去したとされる。
そのため長岡京は遷都直後から怨霊の噂の絶えない都となった。
菅原道真が大宰府へ左遷された後も都で病死、怪死が相次ぎこの時も怨霊騒ぎが起きる。当時の人は怨霊の実在に敏感だったのだろう。

『白鳥異伝』の次なだけにまた勾玉をめぐっての攻防かと思ったが勾玉にはさほどの役割りは与えられていない。全く別の物語と言っても差し支えない。

今度の物語は都に巣くう怨霊とその怨霊の退治を行う話で、武蔵の国の少年達の話から始まり、蝦夷へ、伊勢へ、都へと舞台を移して行くが、この物語の語る別の一面がある。

苑上内親王を通して見られる皇女の孤独である。
同じ兄弟でも親王で無いためにもはや存在しないも同然の立場。
だから自由勝手気ままが許されるかと言うと皇の一族としてあまりに尊貴な立場ゆえに恋愛も結婚相手さえも探すことままならない。

物語では苑上内親王は薬子に学んで男装し、隠密に姿を隠し鈴鹿丸と言う偽名を使って活発で勝気な性格の役どころとなるが、生まれてから最期まで宮中しか見たことがないままという皇女も多かったのではないだろうか。

著者はこの話の中では苑上内親王に幸せな将来を与えている。

他の登場人物で輝いていたのはなんと言っても坂上田村麻呂だ。

長岡京での怨霊退治のための明玉を探しにほぼ単独で蝦夷へ向かう坂上田村麻呂。
坂上田村麻呂という人物、ほぼ初代の征夷大将軍にして蝦夷征伐を行った人、という事以外のはほとんど知られていないのではないだろうか。(初代かどうかには異論があるのかもしれないので念のため「ほぼ初代」としておいた)
その坂上田村麻呂が都人でありながら、都人らしくのない、実にくったくのない人柄の人として活き活きと描かれている。
そのほとんど知られていない、というところが作者の目の付けどころなのだろう。

最後に長岡京にも触れておかなければ・・・。
この地名はもちろん長岡京市として現存している。
京都の南西に位置する市街地域である。
昔、都があったと意識する人はそうそういないだろう。
この地を訪れる人の多くはそこに自動車免許の試験場があるからで、かつて一時とはいえ、都であった面影を残すものはその市街地には無い。
怨霊のために埋没した都の名残などなこれっぽっちも無い。
唯一名残と言えば長岡宮跡の公園があるらしいが私は知らないし、住んでいる人訪れる人のほとんども知らないだろう。

薄紅天女  荻原規子 著



NO.6


フィリピンの首都マニラ。超高層ビル群があるかと思うとほんの川を一本隔てただけで、ずいぶんおもむきが変わって来る。
川の向こうの全てがスラム街だとは言わないがしばらく歩くと、立小便をするオバサンがいたり、普通に歩いていると怪しげな男達が扇型にの状態で後方から付いて来たり。
子どもなんかにも良く囲まれる。
この一帯、高層ビル群のあるあたりとは建物も全く異なる。
高層ビルが無いだけの話ではない。
何か違和感があると思ったら、よくよく見ると建物に直角が無いのである。
三角定規や分度器を使うまでも無い。
微妙なずれを感じる世界。
川を隔てた都市の中と外。

リゾート地として観光客の多いバリ島。ここでも夜中にホテルを出てみると、真っ暗闇の中に多くの人影がある。
だんだん目が慣れて来て、その存在が見える様になるのだが、この人達はあのホテルの中には絶対に入れない人達なのだ。
ホテルの外から眺めるホテルのレストラン。
そこには優雅で楽しそうに食事をしている人達がいる。
その中と外との距離はわずかでも、中へ辿り着くまでの道のりは果てしなく遠いのだろう。

パキスタンのカラチ。商店があってその中へ入ろうとすると一緒にくっついて入ろうとする物乞いの子供が居た。
商店のオヤジは何を思ったか、その子供の顔面を思いっきり蹴り飛ばしたのだ。
商店の中と外。
中の人達は、外の物乞いを人間とは思っていない。
でなければ、吹っ飛ぶほど顔面を蹴り飛ばしたりはしないだろう。
「おまえ達ゴミの来る世界じゃないんだ」そのオヤジの声が聞こえた気がした。

インドのアンタッチャブル。実際にこの目で見た訳では無いが、アンタチャブルは殴られようと殺されようと何をされようと文句の言えない人々なのだという。

「NO.6」という話、舞台は2013年~2017年というほんの目の前の近未来である。
このストーリーの中では世界中で都市と呼ばれるのは6つだけになっている。
その一つがこの「NO.6」と呼ばれる都市。

衛生管理システム、環境管理システムなどが行き届き、不純なものは自動的に排除され、細菌すらいない。
衛生的で美しく、聖都市と呼ばれている。
衣・食・住にも教育にも福祉にも恵まれている夢の都市、という設定である。

その都市は周辺の地域とは隔絶され、内外の行き来は限られたゲートを通るしかなく、当然の如く外の人間は中へは入れない。
中の人も勝手に外へは出られない。

その外の世界にも当然ながら人の営みというものは存在する。
そのほとんどが西ブロックという地域に集中している。
「NO.6」の中と外、全くの異世界。
中の人間は外の人間を人間としてみていない。
言わば「ゴミ」扱い。

外の世界には秩序と言えるものは全く、無くあるのは「飢え」「貧困」「暴力」「騙し」・・・人を人を信用せず、信用、信頼などと言う甘っちょろい考えの持ち主は生きてはいけない。
頼りになるのはおのれの生命力だけである。

そういう設定の中でストーリーは展開される。
「NO.6」の中にも階級が存在し、一番のエリートは「クノロス」と呼ばれる最も恵まれた地域に住む。

幼児の頃から優秀で、将来のエリートを約束されていおり、かつて「クノロス」の住人だった少年が、西ブロックへ行かざるを得なくなるところから話は急展開する。
その少年の名を紫苑(シオン)という。

西ブロックで紫苑の見たものはこれまでの人生を世界を180度変えてしまうほどのものだったはずである。
だがその少年は自らの境遇を不遇とは思わない。
不遇どころか、こういう世界を知って良かったとさえ思っている。

この外の世界では誰と誰が味方だとか、信用し合ったりたり信頼し合ったりする「仲間」という概念が無い場所なのだが、この少年が「仲間」という概念を周囲に与えて行く。

その仲間には「ネズミ」という聖都市「NO.6」を滅亡させる事だけを夢見て生きている少年。
メス犬の母乳で育ち、自分の母親は犬だと思い、犬に囲まれた生活をし、犬を使って情報屋をやっている少年などがいる。

紫苑はどちらの世界の人も同じ人として見、どちらの世界の人も信用し信頼する。
両世界の異端児なのかもしれない。
その紫苑にネズミは手厳しい。
「温室育ち」「甘ったれるな」「天然ボケ」・・・。

彼らがこの外と中の異世界状態を今後打ち破って行くのだろう。
「打ち破って行くのだろう」というのは、このストーリーがまだ完結していないからである。

#1が出版されたのが2003年、で#2、#3、#4、#5 まで出版されているがストーリーはまだまだこれからなのだ。
2003年に#1が出版された頃、2013年は10年後の世界だったかもしれないが、ストーリーはまだ半ばで2007年になっている。
時代が追いついてしまいますよ、という言葉は無用だろう。
このストーリーに201X年という年代はもはや意味は無い。
そういう設定の話だ、という事で片が付く。

衛生的で何不自由の無い理想的で素晴らしい都市であるはずの「NO.6」には人間が生きて行く上での致命的な欠陥がある。
表現の自由や言論の自由が無いのである。

人の口を閉ざそうとする社会は、いずれ人々に閉塞感が生まれ、やがては崩壊する。
歴史が物語っている。

近未来の監視カメラに囲まれた社会などでは過去の人の口を閉ざす社会よりももっと人々の閉塞感は高まるだろう。

だから最終的には「NO.6」は崩壊するのだろうが、案外この両世界にとっても稀有な存在である紫苑という少年が崩壊では無く、第三の道である共存という結末を到来させるのかもしれない。

NO.6 (ナンバーシックス)#1 (YA!ENTERTAINMENT)  あさの あつこ (著)



空色勾玉


『白鳥異伝』と前後してしまったが、ストーリーとしては別物なので前後しても全く問題は無い。
勾玉がタイトルにあるぐらいなのでここでも勾玉は出て来るが、『白鳥異伝』での勾玉の役割りほどの役割りは持たない。

どちらも日本の神話時代のお話であるが、『空色勾玉』は『白鳥異伝』よりさらに前の時代。
『白鳥異伝』は勾玉を守る一族の遠子と大蛇の剣を持つ小倶那(オグナ)の物語だとすると、『空色勾玉』は闇(くら)の一族の若き巫女の狭也(さや)と稚羽矢(ちはや)の物語。
こちらでは狭也が勾玉の持ち主で、稚羽矢が大蛇の剣の持ち主。

設定は似ている。
少々無鉄砲なところのある狭也と遠子。
似ている様だが、どちらかと言うと遠子の方が気が強く、狭也の方が流されやすい感じがする。

稚羽矢(ちはや)の名前の由来はもしや千早赤阪の千早か、とも思ったが、百人一首にもある「ちはやぶる神代もきかず龍田川・・・・・」のちはやぶる(あらあらしい、たけだけしい)のちはやではないだろうか。

それにしても男神である輝(かぐ)の神が女神である闇(くら)の神を追いかけて黄泉の国に行き、その姿を見て逃げ帰ってしまう。
その子供が「大蛇の剣」を持つとなれば、これぞまさしく。
男神イザナギが女神イザナミを追いかけた、という神話そのものか。
イザナギとイザナミは日本そのものの始祖である。

男神の三人の子供で大蛇の剣の持ち主の御子と言えば、ヤマタノオロチ退治のスサノウノミコト。
稚羽矢とはスサノウノミコトなのか。

輝(かぐ)の御子である三人、照日王と月代王と稚羽矢は不老不死。
中でも稚羽矢はちょっと変わり者なので、大蛇の剣と共に幽閉されている。
照日王と月代王には不死ゆえからなのか、人の命を絶つ事など何とも思わないという、酷薄な性格。
同じ不死でも稚羽矢だけは違って、情がある。

それにしても不思議な物語である。
著者の荻原規子氏は小学時代から古事記を読んでいた、と自ら書いている。
そんな頃からとことん通読した人が現代向けに書くからこそ、この様な神話時代の話が何の違和感も無く読めるのだろうか。

各々の個性も強烈だ。
この世の太陽とも言われる「照日王」。
闇(くら)の一族を滅ぼすためならどんな手段も厭わない。

この世の月とも言われる「月代王」。
照日王とはすぐに仲たがいをしてしまうが目的は同じ。
何歳なのかは知らないが二人とも外見は若く美しい。
不老不死なので食事すら摂らない。

話の途中からカラスの身となり、空からの偵察役をやらされたりする「鳥彦」の存在も面白い。
狭也の良き理解者であり、窮地を救う事も・・・。

まるで子供のまま大きくなった稚羽矢には普通の会話は成り立たない。
自然を愛し、人の死に哀れみを持つところは姉や兄とは全く異なる。
動物に成り代わってしまう、という特異体質の持ち主である。

もちろん、神話の時代の話なので特異体質という言葉は当て嵌まらないか。

不老不死はいつの時代も権力者の最大の夢だったのではないだろうか。
手に入れられる限りの全ての権力を手に入れても、必ずや訪れる老いと死。
古今東西の権力者が不老不死を手に入れるための空しい努力を書いた物語は山ほどあるだろう。

この物語そんな不老不死へのあこがれを断ち切るかの様に、人は死ぬからこそ、恐れを知り、悲しみを知り、優しさを知る、という事を繰り返し人々の口を借りて書いているのではないだろうか。

いずれにしても日本の創世記そのものをファンタジーにしてしまう、という途方もない事をこの作者はやってくれている。

空色勾玉  荻原 規子 (著)