カテゴリー: ア行



憑神


思いもかけない貧乏神の姿であるとか、およそ想像しづらい疫病神の姿にオチャメな笑いを持って読む本なのかもしれないが、オチャメな笑いどころか、壬生義士伝に共通するものを感じてしまった。

主人公の別所彦四郎は三河安祥譜代の御徒士(おかち)組の家に生まれ、その祖先は家康の影武者として大阪夏の陣にて、真田幸村に討たれて名誉の戦死をしたのだという。

その功労にて、代々三十領の御影鎧(三十人の影武者の着る鎧)や武具の手入れをし、一日中蔵の中でお勤めをする。

御影鎧は木箱の中へしまう事は許されず、いつ何どき将軍家に一大事があっても直ぐに飛び出せる様に出しておかなければならない。

従って、ちょっと手を怠るとサビが出たり痛んだりしてしまうので、マメな手入れは欠かせない。

時は既に幕末を向かえようとしている。
幕末になるだいぶん以前より、もう鎧武者でもあるまいし、歯朶具足でもあるまいし、それを着ての影武者の時代ではあるまい。

もうだいぶん以前より、いざという時に備えて、では無く民芸博物館的な存在になって来ている。

その仕事に不平の一つもこぼさずに、毎日毎日マメに武具の手入れをするなどというのは並大抵の努力ではないだろう。別所家代々はこの250年間ずっとその仕事を行って来た訳だ。

この本、憑神(つきがみ)と言う名の通り、憑き物として忌み嫌われる神に憑かれてしまうという話。
貧乏神や疫病神まではまだ良いがその次の憑神だけは絶対に人には廻す事は出来ない。

そして徳川の御家人としての武士道を貫こうとする別所彦四郎にとって貫くべき場所がどんどんと失われて行く。

いつの間にやら、大政奉還。
そして鳥羽伏見の戦いにては錦の御旗を持っているのは薩長軍。

御大将である徳川慶喜は、家来を見捨てて大阪城から逃げ延びて来る始末。
その逃げるさなかにて徳川将軍家の徴である「金扇馬標」をも置き忘れて来てしまうほどの慌てようだ。

ところが江戸の御家人はまさか、将軍が逃げ帰るなどとは到底信じられず、一旦中休みをとって、江戸へ帰って陣を立て直して、反撃体制にうつるものをばかり考えていたのに、将軍は自ら謹慎してしまう有り様。

壬生義士伝の吉村貫一郎が、妻や子を貧に貶めてなんの武士道か、自分は妻のため、子のための武士道に生きる、というのに対して、別所彦四郎はどんな武士道を貫こうとしたのか。

新政府への任官も良しとせず、榎本海軍奉行と共に蝦夷へ、という道も選択しなかった。

その選択肢は、武士道、御家人、徳川家への江戸の町民の怨嗟をも晴らし、250年もの間、全く使われる事の無い武具のために尽くして来た祖先をも救い、別所彦四郎自らが最も誇りに思える、最良で画期的な選択肢だった。

そんな画期的な選択肢を選べる男にもはやどんな憑神も関係ない。

形は違えど、一つの武士道を貫いた、という点において吉村貫一郎との共通点を見るのである。

憑神  浅田 次郎 (著)



白鳥異伝


主人公の遠子は 三野の橘氏という勾玉を守り続ける巫女一族の娘。
(「三野」とは美濃の国の事か)
巫女一族だけあって男尊女卑ならぬ女尊的な雰囲気の出だしが面白い。

橘氏が「源平藤橘」の橘氏かどうかはわからない。
実のところ、四大貴族の橘氏と言われても源氏や平氏や藤原氏はいくらでも名前が出て来るが、橘氏と言われても乱を起こした橘奈良麻呂ぐらいしか思い浮かんで来ないのは何故だ!
単に歴史に疎いだけの事か。

この物語、遠子と小倶那(オグナ)の物語であり、また剣と勾玉の物語でもある。

この小倶那、大碓皇子の影の存在として小碓命(オウスノミコト)という名前をもらう。
オウスノミコトと言えばそのまま日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の事でしょう。
古事記では倭建命?でしたっけ。

古事記や日本書紀という日本の神話時代を舞台にしての壮大なファンタジーもの、というのは珍しい。
読む気がするかなぁ、と思いつつもぐいぐいと一気に最後まで引っ張られてしまった。

でもこの本を読む前に「空色勾玉」という本を読まなければならなかったのですねぇ。
先に「白鳥異伝」を読んでしまった。
「空色勾玉」、「白鳥異伝」、「薄紅天女」で三部作だと言うのだから。
上・中・下巻の「中」から読んでしまった様なものなのだろうか。

「まほろば」(ここでは都の呼び名となっている)や「豊葦原」(当時の日本の土地全体)や「日継ぎの皇子」(お世継ぎ)などと言う言葉が普通に出て来ても何の違和感も無いのは何故?

この本の不思議さはそのあたりにあると言っていいのではないだろうか。

登場人物のそれぞれの個性が際立っており、神話時代だとか太古の昔だとかを忘れさせてくれるからなのか。

小倶那がまほろばの大王とその妹である百襲姫との間に出来た子供だったり、母親である百襲姫の小倶那に対する愛情が親子のものを飛び越えた激愛だったり。
子への愛のためなら命を投げ出す事も厭わない。命がけのマザコンママさん。
いや、マザコンという言葉は当て嵌まらないか。
マザーコンプレックスというのは息子側の問題だもんね。
押し付けの母親からの猛愛。
母の愛は強しだからどの時代にもいたのかな、そんな母親。

遠子は無鉄砲で勝気。男勝りで一直線な女の子。
その女の子が小倶那との再会でだんだん女性になって行く。
そういう意味ではファンタジーと書いたが、恋愛小説でもあるのかな。

菅流(スガル)という伊津母の国(これは出雲の事だろう)の人の存在も面白い。
やたらに女ったらしで、人なつっこく、どこへ行っても人に好かれ、言う事はちゃらんぽらんな割りに責任感が強く、肝心な時にはいつも頼りになる。
喧嘩は強いが子供には弱い、という非常に好ましい人物である。

小倶那が母親から授かったのが「大蛇の剣」。その力たるや人智を超え、一旦その剣を振るうと辺り一面が焼き尽くされる。
「大蛇の剣」という限りこれはまさか、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した剣なのか?

それを封じる事が出来るだろうと遠子が探しまわるのが「玉の御統(みすまる)」。
勾玉を四つ集めると「玉の御統」となり、それを所有する人の力もまた人智を超える。
なんせ、小舟をモーターボートの用に疾走させる事が出来たり、ジャンプするとはるか上空のかなたから地上を眺める事が出来る。いいですね。この能力。

菅流などは本州の端から端までジャンプして飛んでしまう。うぅ。
人智を超えると言ってもそこまでとは・・・。
それだけの距離を一っ飛びという事は高度は1万メートルどころでは無い。
人間氷になってしまいかねない。
それも人智を超えた人間には関係ないか。

本当は勾玉を五つ集めるはずがこの物語の中では遠子や菅流が所有するのは四つで五つ目を知りたかったら「薄紅天女」を読め、という事らしい。
ほら、やっぱり続きものじゃないか。

先に「空色勾玉」を読むんだった!

白鳥異伝  荻原 規子 (著)



Good Luck


グッドラック  アレックス・ロビラ & フェルナンド・トリアス・デ・ペス著

少年時代に親友だった二人が54年の歳月を経て再会する。
一人は無一文から会社を起し順調に大きくして来た成功者。
もう一人は祖父・父が順調に大きくした会社を引き継いだものの同業他社との競争に勝てず、業績を悪くさせるばかりか、破産までしてしまう失敗者。
失敗者が成功者に言う。
「僕も君みたいに運さえあったらなあ・・・」
そこで成功者がある物語を話して聞かせる、というお話。

「運は呼び込む事も引き留める事もできない。
 幸運は、自らの手で作り出せば、永遠に尽きることはない」

そのお話というのが、おとぎ話なのです。

「幸運が訪れないからには、訪れないだけの理由がある。
 幸運をつかむためには、自ら下ごしらえをする必要がある」

「幸運を作るというのは、チャンスに備えて下ごしらえをしておくこと。
 だが、チャンスを得るには、運も偶然もない。
 それはいつでもそこにあるのだから」

おとぎ話が訴えたいことは、
いろんなビジネス本でも語られていたり、案外宗教本にも語られているかもしれない。
中には言葉を変えて会社の標語になっていたりもするでしょう。
それがおとぎ話だけに非常に新鮮でシンプルなのでしょう。
素直に頭に入ってきますし、心に何かが残ります。

いくつものキーワードと共に。

「欲するばかりでは幸運は手に入らない。
 幸運を呼びこむひとつのガギは人に手をさしのべられる広い心」

「下ごしらえを先延ばしにしてしまえば、幸運は絶対に訪れてはくれない。
 どんなに大変でも、今日できることは今日してしまうこと」
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この本を読んで何かを感じた人、感じなかった人、人それぞれですから、それぞれの読み方があってしかるべきで、感じない人が可哀想だなどとは露ほどにも思いません。
ですが、何でも斜に構えて読んでしまうよりは、素直に受け入れる心も寛容なのでしょうね。

私は何の予備知識も無しで読んだのですが、出版後わずかの間に世界のベストセラーの仲間入りをしたそうな。
それだけ、何かを感じた人が多かったと言う事なのでしょう。

Good Luck  アレックス・ロビラ (著) フェルナンド・トリアス・デ・ペス (著) 田内 志文 (翻訳)