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知られざる坂井三郎 -「大空のサムライ」の戦後


小学校の頃に、ゼロ戦の戦闘記を読んで感激した覚えがある。
戦後も生き延びたとされていたと思うのでひょっとしたら、この坂井三郎さんが書いたのか、誰かが坂井三郎さんのことを書いたのを読んだのかもしれない。

この本「撃墜王」として名を馳せた坂井三郎さんが亡くなって13年、坂井さんをを偲んで「零の会」という会の方々が文章を寄せている。

「零の会」という会の名前からして、元零戦のパイロットの集まりだろうと思っていたが、もうそんな人は何人も残っていないか。
この会の人は全員零戦に乗るどころか、戦争も体験していない坂井三郎さんのファン、もしくは坂井さんを師と仰ぐ人たちだった。
ゼロ戦の操縦士としての達人は人生の達人でもあった。

坂井さんの書いた本を読んだからと、いきなり家へ訪ねて来た人ですら、本に揮毫を書いて下さるだけでなく、家にあげてもてなしてしまう。
ヒマな人かと言えばとんでもなく、講演会では引っ張りだこ。執筆の頼まれごとも数多い。

この本の構成は良く考えられていて、半ばまでがそういうファンの人たちの思い出話なので、これ以上続いてもなぁ、と思う頃に息子さんが登場し、意外な事実を暴露。
次に娘さんが登場。戦後教育の走りだっただろう娘さんにしてみれば、父が軍人だったことそのものが名誉のはずがなく育ってきているのだが、アメリカへ留学し、アメリカ人の軍人と結婚し、父親の通訳を何度も経験した彼女はまぎれもなく父を尊敬している。

そして最後が坂井氏の監修によるゼロ戦に乗る際のマニュアルだ。
とたんに面白くなってくる。

坂井氏の言っていること、書いていることでは、百田尚樹氏のベストセラー「永遠の0」の中で触れられている、ラバウルのことや南方戦線のことを思い出した。

百田氏も坂井氏の書いたものや話されたことをかなり参考にされたのではないだろうか。

「永遠の0」の主人公宮部と坂井氏の何よりの類似は生きて帰るんだという強い意志。
宮部が生きて家族のもとへ帰ることを第一義としていたのに対し、坂井氏は戦うためには生き続けなければなんにもならない、と目的のところは違うかもしれないが、生き残るための安全性の確認たるや、徹底している。

戦後にもそれは生き続けていて、安全性確保のためのネジが3本あるはずのところ、2本で応急対処している状態などを決して放置出来ない。

それより何よりこの人、撃ち落とす相手あったアメリカ軍兵士に絶大な人気があり、毎年のようにアメリカの式典などに招待されている。

それは坂井氏が書いた本の英訳版の英訳本の影響もあるかもしれないが、坂井氏の話に死地をくぐり抜けた軍人同士でしかわかりあえない共感のようなものがよびさまされるからなのかもしれない。

知られざる坂井三郎 -「大空のサムライ」の戦後- 零の会 編



桜ほうさら


上州だったか甲州だったかの方便で「いろいろあって大変やったねぇ」ということを「ささらほうさら」 と言うのだそうだ。

剣の腕もさほどではなく、犬に脅えて逃げたとのうわさがたつほど。
土いじりをし、庭で野菜を植えるなど、妻から言わせれば武士にあるまじき情け無き夫。ただ、謹厳実直だけが取り柄で誤った道に進むことだけはありそうにない。

そんな父。

そんな父があろうことか出入りの商人から賄賂を受け取った嫌疑をかけられ謹慎させられ、その謹慎中に自らの潔白を晴らすこともなく切腹してしまう。

賄賂のやり取りの証拠として店が出して来たのがまさに自分が書いたとしか思えないほどに自分の筆跡にそっくりな証文だったのだ。

その息子である主人公の笙之介。

江戸へ出て来て、町人の長屋に住み、貸し本屋から頼まれた写本業をやりながら、人の筆跡をそっくり書ける代書屋探しを始める。

それにしても江戸時代の武家にこんな家があるだろうか。

笙之介の母は、いくら位の高い家から嫁に来たとはいえ、夫をないがしろにし、事あるごとに息子には夫が情けないとぼやく。
笙之介の兄は剣の道を極め、母親には自慢の息子。
その兄もまた父を尊敬しようとはしない。
父と性格の似た笙之介は母から疎んじられる。

現代の家庭ならそこらにありそうな話だ。
「お父さんのようになりたくなかったら、勉強しなさい」なんてそこら中で言っていそうだ。

うだつのあがらない亭主を妻が馬鹿にし、エリートコースを貪欲に目指す長男を溺愛し、父に性格の似た次男は相手にすらしない。

さしずめ、江戸時代を舞台にした現代物語といったところか。

現代もまた「ささらほうさら」いろいろあって大変なのだ。

桜ほうさら  宮部みゆき著



紙の月


過去に女性のベテラン行員による巨額の横領事件は何度か起きている。

その内の一つがモデルだったのだろうか。

この手の事件が起こるたびに思い出すのが某食品大手メーカーの社長が男性社員の一人に1年間、会社の仕事はしなくていいし、いくら使ってもいいしどんな遊びに使ってもいい。1年間で一つだけ何か商品開発のアイデアを持って来てくれればそれでいい、と言われたサラリーマン氏の話。
彼は億どころか何百万の単位ですら使う事が出来なかった。

それに比べてどうだろう。
若い男への見栄なのかもしれないが、高級ホテルのスイートルームを常宿としてみたり、若い男が住めるようにマンションを借りてみたり、そのマンションの家具や食器類まで高級なもので揃えてみたり、若い男に車を買ってやったりと、散在してしまった金は1億円。

元はと言えば正義感の強い女性。
不真面目だとか自堕落なところは学生時代を通して一度も無い。
クソがつくほどに真面目な人なのだ。

夫が自分の方が稼ぎが多いことをあからさまに言われたところで、彼女の友人が勧めたように、おだてておけばいいものを、それが出来ない。
夫の言葉に違和感を遺したまま、過ぎて行く。

もしあの時、あの若い男性と会わなければ、もしあの時・・・とIFは続くが、
そもそも、自分から何かをやりたいと感じたり、何かをやろうとしたことがないひとなのだ。
違和感を持ってもそれを解消することなく、惰性ですごしているが、実は本当ははじけたかったわけだ。
そのいくつものIFはそのきっかけを与えたにすぎない。
多かれ少なかれ、形は違えど何か道を踏み外していたのではないだろうか。

この本に登場する人たち、同じように際限なくカードローンで買い物をしてしまう人。
真逆に節約節約で子供に小遣いさえ与えず、貯め込む人。

離婚した後に夫と暮らす娘が会いたいと言ってくるのは金のかかる欲しい物がある時だけ、という人。

みんな金に振り回されている人ばかり。

なんとも夢の無い本を書いてくださったものだ。

「アンタ達、男には到底マネできないだろ!ガッハッハ!」とでも笑い飛ばして終わりにしてくれた方がよほど救いがある。

紙の月 角田光代 著