カテゴリー: ア行



人質の朗読会


地球の裏側の某国の山岳地帯の村で、日本人観光客ら八人が反政府ゲリラに襲撃され、そのまま人質として拉致されてしまう。

何ヶ月間かの膠着状態の後、裏取引ではなく軍と警察が強行突入。
犯人グループは全員射殺されるが、人質の人たちも爆破によって全員死亡してしまう。

そんな悲惨な事件を扱った物語だったのか。
小川洋子さんらしからぬ出だしに少々驚くが、その犯人アジトを盗聴していたテープが見つかり、そのテープの中に八人の人のそれぞれの朗読が残されていた。

この本は、日々銃を突きつけられたであろう人質という状態にあった人たちがそれぞれ身を寄せ合いながら、一人一人が自分の思い出を朗読するという八編の小編の集まりだった。
正確には現地の兵士の思い出もあるので九編ということになるが。

それぞれはなんでもない話ばかりのようにも思えるが、その人個人にとっては忘れられない話ばかりなのだろう。

近所の鉄工所が実は物を作る場所ではなく物を破壊する場所だとばかり思い込んでいる少女とその鉄工所の工員さんとのやりとり。

到底売れないだろうと思われるぬいぐるみを露天で売っているおじいさんとのやりとり。
ビスケット工場に勤める女性の朗読は、アルファベットの文字のビスケットを作る工場で働いている女性が欠品になったものを持ち帰り、お金に執着し、整理整頓を生きがいとする大家さんとseiriseiTonなどと机に並べては最後に食べる、大家さんとのやりとり。

母親の留守中に台所を貸して欲しいという隣の娘さんがその母親のために作るコンソメスープのお話。

紳士服店でアルバイトしていた人がなぜかその人だけに親切にしてくれるお得意さまがいて、アルバイトを辞める時に周囲の誰からも惜しがられたりしなかったのに、そのお得意様はわざわざ花束を持って来てくれる話。

なんだろう。
一編一編はそれぞれはなんでも無い話のようで、何故だか心に残るものがある。

死というものを目のまえにした人たちがそれぞれこれまでの人生の中での一番の思い出を語る。
だからこそ心に響くのだろうか。

もちろん、ドキュメンタリーなどではなく小説なのではあるが・・。

槍投げの青年の話などは、単に槍投げの選手が槍投げをしていた、というだけの話なのだが、その一挙手一投足に感動してしまう。
その一挙手一投足を観察することがその人の人生を変えたのだ。

人質の人たちは40代、50代の人を中心に60代や30代の人も20代の人もいる。
それまでの40年間、50年間の人生の中で、その瞬間が人生を変えるに等しい瞬間だった、そんな一コマを一人一人が語っている。

もちろん実話ならこの短編のように一編一編は綺麗にまとまった話では無かっただろう。中にはしどろもどろになりながら、中には途中で話が行きつ戻りつしながら、もっと時間をかけた長い長い話になっていたのかもしれない。

それでも、日本語のわからない盗聴していた兵士の心にもその朗読は響いてしまう。
その上官はその朗読を「深遠な物語」だと兵士に語る。

小川洋子さんはなんという物語を描いてしまうのだろう。
このそれぞれの小編の中のそれぞれの何十年間の人の人生を凝縮してしまうなんて。

こうして読み終えてあらためて自分を振り返ってみてしまう。
果たして、そんなところで語れる人生を凝縮した話など出来るだろうか。

自分にとってのそんな瞬間とはどの瞬間だったのだろうか。
そんな風に自分を考えさせてくれる本なのでした。

人質の朗読会 小川 洋子著 中央公論新社



砂漠


この本は以前にもUPされているかもしれないが、重複もたまにはいいだろう。

自分も以前単行本で読んだ覚えがある。読んですぐにブックオフにでも処分してしまったのだろう。

昨年文庫化されたと知り、あらためて読んで見て西嶋という男の素晴らしさに感激してしまった。

なんでだろう。
以前読んだ時のイメージはおそらく「うざい男」ぐらいのイメージしか持ち合わせなかったように記憶しているのに。

世界平和のために自分の出来ること。
麻雀で「平和」(ピンフ)という安い役があるのだが、ひたすら「平和」で上がることに固執し続け、毎回最下位の位置をキープし続ける。

それだけ読めばなんのことかわからないだろうが、西嶋という男は自分で出来ることをやり通すのだ。
しかも常に堂々としている。

「とにかく救ってあげればいいんですよ。」

という言葉通り、たまたま見つけてしまった動物保護センターのWEBサイト。
飼い主からはぐれてしまった犬の飼い主を捜すサイト。
そこは新しい犬で日々更新されて行き、その登録期限が過ぎれば、おそらく処分されてしまう。
そのサイトを見てしまった同級生の主人公氏は西嶋ならどうするんだろうな、と考える。結局、世界平和を、といくらいったって目の前の捨て犬の命一つ救えないんだろう、と。
あにはからんや、西嶋は救ってしまう。自分が飼い主だと名乗り出てしまうのだ。
「そんな!次から次へと犬を飼い続けるつもりなのか?」
に対しては、
「次からはあのサイトは見ないことにする」
という解決策を持っていた。

見てしまった以上は救い出さねばならない。
有言実行の男としてはそれ以外見てしまうわけにはいかないのだ。

駅前で募金をしている人を見て、ちゃんと届けられるのかどうかわからないし・・・としり込みする輩には、四の五の言わずに募金をしてあげればいいんだ、と切って捨てる。

過去のこととか先のことはどうでも良い。今できることをやるだ。
今、目の前で泣いてる人を救えない人間が、明日世界を救えるわけがない。
偽善は嫌だとか言っている奴に限って、自分のためには平気で嘘をつくんだ。

西嶋の考え、言動、行動は常に王道だ。
だが、その王道の考えの対極に居るのが大抵の連中で、世界平和だ!言ってろよ、と。
今、目の前で泣いてる人がいても見て見ぬふり。

それがどうだろう。
この3.11を境にして日本人は変わって来たんじゃないだろうか。
大抵は西嶋と対極に居たはずが、西嶋に近づいているんじゃないだろうか。

ゴールデンウィークには現地で断らなければならないほどボランティアの人が集結した。
いたるところで集めている義援金。
支援物資を送る人も大勢いた。
皆、今出来ることをまずやろう、としている。

震災後のテレビニュースにて、津波研究を専門とする学者が現地を取材している映像があった。
その手前で大きな余震があったのだろう。
遠くからその津波学者を目がけて、「逃げてー!」「逃げてー!」と女性が叫びながら走って来るのだ。
「津波が来るかもしれないから、とにかく早く逃げてー!」と。

自らが安全な場所にいて「逃げてー!」と叫んでいるのではないのだ。
彼らのいる場所まで走って来るのだ。
その映像を見た瞬間、あまりのことに慄然としてしまった。

彼らのところへ津波が来るのなら、自らも呑まれてしまうであるはずの場所に自ら駆けつけてまでしてでも人を助けようとするその女性。
自分のことはともかくも人を助けようとする。

西嶋と同じ魂か。
いや、もはや西嶋どころではない。

東北の人たちの強さ、優しさには本当に心を打たれる。

その強さがあまりの長期間の無策で萎えてしまわないことを願わずにはいられない。

砂漠 伊坂幸太郎 著



愛、ファンタジア


1830年、フランス軍がアルジェリア上陸を始める。
その1830年代があったかと思うと作者の幼年時代に、また再び1800年代に、舞台は小さな章を経る事に年代が変わって行く。
どの時代でも語り部は、北アフリカのイスラムの女。
1830年から20年ほど続いた戦争。
そして第二次大戦後直後より続いた戦争。
1962年に独立するまでの間、1830年からトータルで132年間もの間、アルジェリアの人は、フランスと戦うか従属するかのどちらかをせざるを得なかった。

その戦いはアルジェリア戦争として男たちの戦争として歴史年表に残るのだが、読み書きのすべを知らない女性たちは口伝えにその歴史を語り継いで行った。

1830年の上陸戦の時には、二人の女性の事が語られている。
一人は息絶えながらも、その手にはしっかりとフランス兵からえぐり取った心臓が握られていた。
もう一人は子供を抱えて逃げていたが、銃弾に当たって傷つくと子供を敵の手に渡すまいと、その子の頭を石でたたき割った、とある。

なんという凄まじさなんだろう。

1845年、山間部の洞窟に隠れ住んでいた部族をフランス軍は火責めにする。
60mにも及ぶ炎を18時間もの間燃やし続け、煙攻めにし、燻し続ける。
その後に残ったのは男、女、子供1500人の死体。数百頭の羊と牛の死体。
これは口伝えではなく、従軍していたスペイン人士官が書き残しているものからなので、その数字はおそらく妥当なのだろう。

19世紀と20世紀を行ったり来たりしながら、一体何人の女性から伝え聞いたのだろうか。
ムジャヒディンをかくまったとして、家を焼かれ、逃げ惑う女性。
夫を殺され、兄が殺され、息子が殺され、家が焼かれる女性。
この本一冊の中に何度家が焼かれる話が出て来ることか。

フランスとアルジェリアの関係という意味で日本で一番有名なのはあのワールドカップで活躍したジダンではないだろうか。
なかにはカミュという人も居るかもしれないが・・。
あのワールドカップの試合最中での相手選手への頭突き。あれは当時、「移民の子」とヤユされたのではないか、ともっぱらだった。

フランスの中での移民問題で言えば、現大統領のサルコジ氏はかつて、内相時代に移民たちを「社会のくず」「ごろつき」と広言したことは良く知られている。

著者は1936年生まれのアルジェリア人である。
同世代の女子がブルカというヴェールを被り、家の中に閉じ込められる年頃にフランス語の学校に通い、フランスへ留学する。
その彼女でさえ、この本の中で何度もフランスをして「敵」という表現を用いている。

彼女はフランス語はかつて自分の国の人々を葬る石棺だった、とも書いている。
そう書きながらもその言語を使ってこの本を書いている事への自己への矛盾についても自問する。
この本の背表紙には、20歳で「アルジェリアのサガン」といわれ・・という説明文がある。
そんな彼女だからこそ、「他者の言語」であったとしても、敢えてフランス語で同胞の嘆きを著すことの方が発信力は大きいのだろう。

フランスではつい先日の4月に「ブルカ禁止法」が施行されたという報道があった。

この本の中の1840年代の記述に地方の郷長が娘を花嫁とする婚礼の行軍の際に裏切り者によって殺されるシーンがある。
裏切り者たちは、女性たちに装身具を差し出すように命令する。
花嫁であり郷長の姫である女性はティアラをはずし、ヴェールを取り去るかと思うと全身に纏っていた装身具をはずし、とうとう裸になってしまう。
あたかもヴェールを取ることではもはや裸になったのも同然とでもいうように。

つい先日ビン・ラディン容疑者をアメリカの部隊が急襲、射殺したというニュースが全世界に流れ、米国では拍手喝采の嵐が報道された。

あの9.11の惨劇を思えば、誰しも理解は出来る。民間人を無差別に対象とするテロ行為など許せるものでは無いのは当たり前である。

それでも方や虐げられて来た民族の人たちは、100年以上にわたって無辜の民を殺され、略奪され、焼き討ちされ、ついには蔑まれたのだ。

100年以上にわたってムジャヒディンたちは民族のために戦い続け、女たちは彼らを匿い続け、家を焼かれた。

この日本に住む我々は、震災後のトモダチ作戦を展開してくれたアメリカ軍の人たちにもちろん「ありがとう」の気持ちで一杯だし、原発へ対処への支援の手を差し伸べてくれているフランスの人たちにも「ありがとう」である。

それでも米国大統領は選挙での勝利という目標があるにせよ、リアルタイムで皆で急襲作戦を眺めていた写真を公表したり、皆を歓喜させる演説は米国内のみならず世界に流れているのである。
あれを見たイスラムの人たちの気持ちは複雑だったのではないだろうか。

もはや死刑は執行されたのである。
執行された後の歓喜である。
正義の勝利宣言よりも寧ろ「亡くなった魂よ、安らかなれ」のような声明文を残すぐらいにしておいたら良かったのに、と思うのは私だけだろうか。

イスラムの人たちの気持ちを逆なでするするほどに聖戦士の卵たちは耐えることなく生まれて来るではないのだろうか。

アメリカもフランスもイスラムの人たちの気持ちを逆なでする政策を施行したり、演説をしないでおいて頂ければ宜しいのにと、我々が感謝するアメリカの人やフランスの人のためにも思ってやまない。

愛、ファンタジア アシア・ジェバール著  石川清子訳