カテゴリー: ア行



キケン


表紙がいきなり漫画だったのには少々面食らいましたが、あの「フリーター、家を買う。」の作者の本でしたので、思いきって手を出してみました。

「フリーター、家を買う。」はドラマ化までされて、寧ろドラマの方が有名になってしまった感がありますが、ドラマは原作の良さを出していたのでしょうか。
ドラマは主人公君が正社員になるところで終わっていたように記憶していますが、原作は少し違います。
寧ろ、正社員になってからの目覚ましい成長ぶりの方が光っていたように思えます。

さて、この「キケン」ですが、こうしてカタカナで書くと「危険」としか思えませんが、成南電気工学大学という男ばかりの大学の「機械制御研究部」略して「キケン」。

新入生向けのクラブ説明会でいきなり爆発実験。
グランドで大爆発を起こして、3階まで達するほどの火柱を上げるわ、クレーター並みの大穴は空くわ。
確かにキケンなクラブです。

上野先輩という二回生でありながら部長のハチャメチャなやり方が物語を引っ張って行くのですが、合い間、合い間、に登場する夫婦の会話からして10年前の思い出話だとわかります。

学園祭の模擬店では「模擬店とは店の模擬だ!」とわけのわかならい叫びと共に本格的な店舗を急ごしらえで作ってしまい、一日三交代二十四時間制って学園祭でなんで深夜営業なの?
去年の売上の3倍を目指す!ってどこまでも本気。

そんな思い出を妻に語りながら、あそこはもう自分の居る場所じゃないんだ、と学校から遠ざかる本当の主人公さん。

全力無意味、全力無謀、全力本気。
一体、あんな時代を人生の中でどれほど過ごせるだろう。

楽しかったのは正にその厨房の中で、シフト終わるなり植込みに突っ込んで寝るほど極限まで働いている正にその瞬間なんだ。

爆弾やら学園祭やらロボット相撲大会やらでのハチャメチャぶりは有川さんにしてみれば前振りでしかなかったのすね。

それにしても前振りにしてはずいぶんと派手にやんちゃに遊びましたね。

ある程度の年齢の人なら誰しも、このぐらいの世代の頃には程度の差こそあれ、人にも言えないほどのバカをガムシャラにやっていた記憶はあるのではないでしょうか。

確かに世の中、不景気で、就職難で・・・でも、そこで小さく自分をまとめてしまわずに!

今しか出来ないことを精一杯やれよ。

無意味に思えることでも、無謀と思えることでも、なんでも全力で、本気でやっておけよ。

という有川さんから若者への強いメッセージが伝わってくるのです。



新しい人生


オルハン・パムクという人、トルコ初のノーベル文学賞受賞者だとか。
刊行時にトルコで史上最速の売上を達成した・・。

そんな宣伝文句につられてしまったが、トルコという国柄を知らない人間にはなんともページの進まない本であった。

これだけページが進まないのは、ひょっとして訳者の問題では?、などと途中で思ったりもしてしまうほどであった。
「朝、一日が私を起こす前に目覚めて、私が一日を迎えるのです」
こんな訳文って有りなの?と思える箇所が度々だったこともある。
「○○がわが国にとってどれほど有害なことかを議論する機会を得た」
これはあることを調査する調査員からの報告書の文体なので余計に硬いのだろうが、「議論する機会を得た」ってどれだけ直訳なんだ?まるで翻訳ソフトが訳したような訳文じゃないか、と読みながら思ってしまう。
考えてみれば、登場人物のキャラ作りなども翻訳ものではかなり訳者に依存されている面があることは確かなんだろう。
第一人称にしたって日本語では「私」「ぼく」「俺」・・・と訳者次第で言葉遣いやら表現の仕方が変わることは否めない。

とは言っても、このページの進まなさは翻訳者より作者によるものなのだろう。
訳者は原文にかなり忠実に翻訳という作業をこなされた、ということなのだろう。
案外、日本の芥川賞受賞作なんかを一回英訳して、それを忠実に邦訳し直したら、文体はこんな感じになるのかもしれない。
それでもストーリーそのものは本来の著者によるものなのだから。

トルコというお国。
シリア、イラク、イランといういつも日本の新聞の紙面のどこかには顔を出す中東の国と接し、最大の都市のイスタンブールは限りなくブルガリアやギリシャに近い。
西洋と中東の狭間にあるこの国は中東の色が非常に濃い文化をかつては持ちながらも常に西洋からの息吹を受け、国としてはスポーツの世界でも、スポーツ以外でもアジアではなくヨーロッパに属しながらも、宗教は、というと国民のほとんどはイスラム教徒のお国柄。

本の中にも「西へ我々がチェスを伝えた。(中略)宰相をクイーン、象をビショップに変えた(中略)チェスを自分たちの理性の・・合理主義の勝利として我々に返してきた・・」というように、自らの文化を西洋色に変えられつつあるこの国の人々は、西洋、アメリカ発の便利で合理的なものを享受したい反面、この本に登場する西洋化反対の組織のように、自らの国の文化を守りたい気持ちとの間で常に心の中は揺れているような、そんな国民性なのではないだろうか。(と勝手な想像)

仏教伝来の頃よりずっと、異文化の吸収、新技術への取り組みや新しいものを受け入れることに関しては世界でも稀なほどに寛容で柔軟な日本という国に住んでいるが故に尚のこと、そういう心を理解するにはその文化への理解が不可欠だろう。

この震災にて、原発事故にて、夜でも明るいのが当たり前だった町が夜は暗くなり、ある一部の人は自然回帰を訴えるが、日本人の寛容性はおそらく変わらないだろう。

「ある日、一冊の本を読んで、ぼくの全人生が変わってしまった。」で始まるこの本。
この一行けでもかなり期待をしてしまうだろう。
が、実際には前段を読み切る苦痛を通り抜ければならない。前段を通り抜けれさえすればその後はなんとかページは進んで行くはずである。

いずれにしろ、トルコという国にもっと馴染みが無ければ、いくら優れた作家の本であっても難解になってしまうことはやむを得ない。

いや、トルコへ留学したというこの訳者そのものがあとがきで述べている。
難解で唐突なストーリーについてゆけず、第一章を読み終えないうちに断念してしまった、と。
訳者が自らが断念した本を翻訳している、というのもかなり珍しいことのように思えるが、それは単に知らないだけだろうか。

あとがきでは、トルコの歴史をかいつまんで紹介してくれているので、それにはかなり助けられる。

1980年代に輸入規制緩和が行われ、大量の外国製品が流入し、・・・そして1993年に経済危機が訪れ、インフレ率が150%を超える、そんな時代が背景にあるのだという。
邦訳こそ2010年であるが、20年近く前のそんな時期に発表され、トルコで大人気となったこの本、もっとトルコという国情やら、歴史やら固有名詞やらが身近になった上で読めばその人気の秘密が明らかになるのだろう。

そうでもない現状ではとりあえず、読む人に新しい人生などを与えてくれるわけではもちろんないが、もっと速読の術でも身につけねば・・なんていう向学心は与えてくれるかもしれない。

新しい人生 オルハン・パムク著  安達智英子訳 ノーベル文学賞受賞作家



終わらざる夏


おもさげながんす。

「壬生義士伝」で南部藩を脱藩した新撰組隊士、吉村貫一郎が何度も出てくる言葉だ。

おもさげながんす。

この本にもこの言葉が何度も出て来る。

終わらざる夏、昨年2010年夏に出版された時、すぐに本屋へは行かずにオンラインのブックオフで在庫があらわれるのをしばらく待ったのであるが、メドベージェフが国後島を訪問するに当たって矢も楯もたまらず本屋へ走った。

千島列島に占守島(シュムシュ島)というところがある。
興味のある方は地図で探してみると良かろう。

千島列島北東端の島。
北東のカムチャツカ半島のほん目の前。
佐渡島の半分ほどの広さなのだという。

その小さな島に史上最強と言われる関東軍の陸戦部隊が居た。

満州のソ連国境近くの防衛部隊を引っこ抜いて、一部隊は南方戦線へ、もう一部隊をアリューシャンから米軍が侵攻して来た時に備え、千島に配置されたのだという。

ところがミッドウェーで敗れ、ガダルカナルで敗れ、硫黄島を奪われ、沖縄を奪われ、制空権を奪われ、首都東京は爆撃され放題となってしまい、もはやアリューシャンからの侵攻などあり得ないのにも関わらず、その史上最強軍団を輸送する手だてすら無くなってしまい、千島の果ての島に手つかずの精鋭部隊が取り残されてしまった。

しかも戦車も武器もピカピカに磨きあげられ、戦士達の士気も旺盛。
敵がここへの上陸作戦を決行したとしても、島には至るところに壕が掘ってあり、防御は完ぺき。しかも濃霧が立ち込めるので敵は空からの援護射撃もままならない。

そんな部隊がこの最果ての島に。

ソ連になる前のロシアとの間で結ばれた樺太・千島交換条約で交わされている通り、千島列島は日本の領土であった。
3.11の巨大震災直後数日の間、テレビをつければどのチャンネルも等しく、画面の右下などに日本列島の地図を映し出し、津波情報を表示していた。
そのどのチャンネルにも映し出される地図には間違いなく択捉、国後が表示されていて、あの間真赤な津波警報の表示がなされていた。
少なくとも普段は意識しなくとも択捉、国後までは日本の国土であるという明確な意志表示を全チャンネルが発信していたわけだ。

広島、長崎へと原爆が落とされるにあたって、一億総玉砕から一転、ポツダム宣言受け入れへ。
玉音放送の中身まではこの島までは伝わらなかったが、ポツダムを受諾したことは兵士たちにもわかってしまう。

で、米軍が来たら潔く、武器を捨てようと覚悟したその矢先、米軍は上陸して来ずになんとソ連が侵攻して来る。

その上陸部隊を完膚無きまでに叩き潰してしまうのだが、その後がどうも腑に落ちない。なぜそれだけの戦える部隊でありながら、ソ連の侵攻を許したのか。何故その後も徹底抗戦をしなかったのだろう。

そもそもポツダム受諾で武器を捨てるつもりだったのが、卑怯なソ連から領土を守る為に武器を取ったのではなかったのか。

おそらく本国から武器を捨てよ、という命令が来たのだろうが、そのあたりについての記述はない。

生き残った部隊は武器を捨て、シベリヤへ送られるのだ。

この本はもっと戦えという類の本ではない。
戦争がいかに愚かなものか、といろんな語り部を通して語っているのだ。

語り部は場面、場面で入れ替わる。

東北出身で東京の翻訳出版社で編集長をしていた片岡という人、45歳で召集されてしまう。
この人が妻にあてた手紙で、人類はもう二度とこんな馬鹿げた戦争などしないでしょう。と語るのだが、どっこい終わらなかった。
朝鮮戦争あり、中東戦争あり、ベトナム戦争あり・・・と。

同じ東北出身の医者で軍医として召集された菊池軍医。

同じく同郷の傷痍退役軍人でありながら、召集された鬼熊軍曹。
この人のキャラクターが秀でている。

ピカレスクやプリズンホテルなどで、こわもてで学も無いが、そのやんちゃな語りの中に真実を言い当てる洞察力があったりする、いかにも浅田次郎が描きそうな人柄だ。

時には片岡の妻が語り部となり、侵攻してくる側のソ連の将校も語り部となり、千島の部隊の中でも最古参の老兵が語り部となり・・・。

と、登場する語り部の数はかなり多い。

この話は千島を舞台とはしているが、もうひとつの舞台は旧南部藩あたりと思われる東北地方。

召集令状を出すにあたって、一家の働き手を一人は必ず残すようにつとめて来た役場の人も、終戦直前の一億玉砕間際に至っては一人の働き手だろうが、なんだろうが考慮する余地がなくなってしまい、おもさげながんす、と思いながら赤紙を出して行く。

2011年。
3.11に東北沖合いを震源地とする千年に一度と言われる大震災の発生。
阪神大震災を引き合いに出すのもおもさげながんすが、阪神が地震の後の火災で多くの人命が失われたのに比し、今度のは火災ではなく大津波だった。
東北から関東にかけての太平洋側一帯をまるごと飲み込んでしまった。
町や村そのものが消滅してしまったところが何度も放映される。

もう一つの大惨事は原発事故だろう。
いつ爆発するかもしれない、どれだけ放射能を浴びるかわからない現場で対応されるかたがたは命をかけて、この国を守ろうとされておられる。

それを見ても何の手助けも出来ないもどかしさ。

東北の方々、原発周辺の方々、そして今も戦っておられる方々に、おもさげながんす、の気持ちで一杯である。

おもさげながんす。

終わらざる夏(上・下巻) 浅田次郎 著