カテゴリー: ア行



兄妹パズル


よくなんでもない題材でこれだけの一冊書けるなぁ、と感心してしまったのでした。
兄二人と妹一人の三人兄妹。
その兄の内一人が実の兄では無く実は従兄弟でした。
と、まぁありていに言えばそれだけの話。

それだけの題材でありながら、なかなかに楽しい。
勉強が出来て、教えるのも上手で、顔立ちも美人の母親似で容姿端麗、いつでも沈着冷静なコウ兄。
明るいのが取りえで、ことサッカーに関しては中学時代から、将来はJリーガーも夢ではない、と言われるジュン兄、そして妹の亜実。
その「亜」という字に「醜い」という意味があることはこの本で初めて知った。

彼ら三人兄妹の仲のいいこと。
兄弟は人生最初の敵などと言う人もいるほどに世の兄弟姉妹はそんなに仲の良いケースばかりではない。

食事のあとに必ず「おいしい?」と尋ねる母。
料理の腕を気にしているのではなく、「おいしい」と答えさえすれば、この子は元気なんだ、という基準値なのだとか。
この鷹揚な母親の存在があればこそ、こんな良い兄妹が育ったのかもしれない。

唯一影が薄いのが父親である。
佐藤浩一に似ているともあったっけ。母親似でなく父親似でなのがこの主人公の妹の唯一の悩みの種だ。

影が薄い父のようで、実はやはりかなり存在感がある。
兄のうちの一人が出奔してしまった時、月に一度はがきが一枚届くのだが、そのはがきの内容たるや「元気です」 のたったの四文字。
それを見た父は一言。

「丸くて太し心配せずともよし」

騒ぐでも怒るでもなく平然としている。

こういう雰囲気、いいですね。
「心配せずともよし」と言われても心配してしまうのが母親というものなのだろう。
当然、置いて行ってしまっているに決まっている携帯電話に何度も電話をかける。

妹ともう一人の兄はその携帯の充電が切れてしまわないようにこっそりと充電していたりする。
なんとも心根が優しいのだ。

ストーリーそのものに奇抜なものや、おぉっと言わせるような展開があるわけではない。冒険譚があるわけでもない。

それでも物足らなさなどはこれっぽっちも無い。

いやぁ、ほんとうに心暖まるいい兄妹のお話でした。

兄妹パズル 石井睦美著



薬指の標本


読んだあと、奇妙で怖い夢を見たような気分になりました。

ざっとあらすじ。
主人公の女性はソーダ工場で働いていましたが、あるとき機械に指を挟まれて薬指の一部を失います。
切断された肉片は機械に飲み込まれ、流れた血がソーダを桃色に染めます。
女性はソーダ工場を辞め、新しい土地で標本室の受付の仕事に出会います。
仕事は簡単なもので、持ち込まれるものがどんなものであっても、
標本にできますと答え、それを受け取るというもの。
標本を作るのは一人の標本技術士。
標本技術士の不思議な魅力に女性はいつの間にか飲み込まれていって・・・。

標本にして欲しいと持ち込まれるものは様々。
多くは辛い思い出が残していった残骸たちです。
できた標本は標本室に保管され、依頼者が見に来ることはほとんどありません。
大抵の依頼者は標本になったことで安心して、先へ歩みだします。

どんなものでも標本にする標本技術士がとても不気味。
主人公の女性の薬指を興味深く眺め、失われた一片に関心を示します。
標本技術士の異様な雰囲気は、生きているものよりも失われたものへの関心が強いように思われるからかもしれません。

私は体の一部を失った事はありませんが、
それなりに元には戻らないであろうやけどをしたことがあります。
今でも傷を見ると、若干残念な気分になりますが、
戻らないものにいつまでも心を支配されるわけにはいかないので、
忘れるよう気持ちを動かします。
標本技術士は、毎日のように依頼者が忘れたいと願った傷と対面して、
それを自分の周りの標本室に保管し続けているわけですから、
不気味なのも仕方ないかもしれません。

結末はちょっと青髭的で、特に納得したりはっきりした落ちがあったりするわけではないのですが、不思議にすとんとお腹におさまる物語です。
悪い夢を見たような、でも眼ははっきり覚めていたような感覚。
薄暗く閉鎖的な空間でありながら、その情景が鮮やかに眼に浮かぶようなのも不思議です。

この「薬指の標本」はフランスで映画化されました。
見ようかなとも思ったのですが、
私の頭の中に浮かんだ「薬指の標本」の情景はそのままにしておきたかったのでまだ見ていません。

原作には比較的忠実な映画だそうなので、
フランスから見た「薬指の標本」の情景を見るのもおもしろいかもしれません。

薬指の標本 小川洋子著



カッシーノ!


カッシーノとは知っている人は知っているカジノのこと。
浅田次郎がモナコから始まってイタリア各地、フランス各地、オーストリア各地、そしてロンドンと、ヨーロッパを股にかけてカジノ巡りをし、ギャンブル三昧の旅行を楽しんだ一冊。

なんとまぁ豪快でゴージャスなことだろうか。

浅田次郎と近い世代で言えば村上龍なども以前は若者雑誌向けの連載もので世界を飛び回って贅沢三昧をする話を書いていたし、新しいところで「案外、買い物好き」という本では、イタリアへ行って、シャツを何十枚単位で大量買い、靴をまとめて何十足と豪快な買い物ぶりを披露していたが、浅田次郎のようなギャンブルの世界へ踏み込んだ類は読んだことが無い。

浅田次郎自らは、自分は小説家がたまたまギャンブルをしているのでは無く、小説を書くギャンブラーなのだ、とのたまう。

さて、何ゆえ今になって「カッシーノ」なのか。
この本は2003年刊なので、近著というにはちと遠い。

それは、橋下大阪府知事が「大阪カジノ構想」というものをぶちあげている最中だからに他ならない。
かつて石原東京都知事も「カジノ構想」を語っていたはずだが、あれはいったいどうなったんだろう。

一言でカジノと言ってもそのスタイルたるや、各地域地域にて全く趣きを異にする。
もちろん観光客目当てが大半だろうが、オーストリアのカジノに見られるような、来るなら来い、という姿勢のところ。入場料ならぬ、入り口チップを買わなければ入らせないというのは、立見の観光客を排除するのが目的。

タキシードに蝶ネクタイなどという正装で無ければ入れないところなどは、一般の観光客には敷居が高すぎる。

フランスのように、郊外のリゾート地でしかカジノを開設してはならない、という取り決めのところが大半であるが、中にはロンドンのように街中の至るところにカジノがあるようなところ有り。
但し、ロンドンのカジノはすべからく会員制。
中には50万ポンド(書かれた当時のレートで約1億円)を一晩で賭けることが条件のところなども紹介されていて、それこそどんな連中が遊ぶんところなのか、桁が違いすぎて呆れてしまうほどである。

それにしても、大阪の人間がタキシードを着て、蝶ネクタイをしてカードに興じる姿というのは想像するに難いものがある。

この「カッシーノ」に次ぐ第二弾「カッシーノ2!」という本では、イスラム圏内の各地のカジノなども紹介されている。

こちらのスタイルはどうか、というと徹底的に外貨獲得に徹している。
まず、地元の人は入れない。
それになんということか、現地の通貨が使用出来ない。

米ドルを使用せよ、という。無ければ円でも良いなどと。
カジノがあるホテルでも現地通貨から外貨への換金はしてくれない。
カジノでドルや円をたんまり使わせても外貨獲得。たまたま、客に勝たせてやったところで、現地通貨から外貨への換金が行われないのだから、その国で全て使って帰れということなのだろう。

現地通貨に換金し過ぎて、その余りで散財してやろうか、という輩は入る余地がない。

大阪カジノ構想というものには総論賛成なのだが、はてさて、大阪カジノはいったいどんなスタイルを目指すのだろうか。

ちなみに海外の人から言わせると、「日本にもたくさんカジノがあるじゃないか」と言われるらしい。
つまりパチンコ屋さんのこと。
あれだけ、街中の至るところに、しかも全国的にカジノがある国も珍しいと。

パチンコは日本独特のカジノスタイルなのだそうだ。

そのパチンコ屋さんの件数で言えば、大阪には首都東京と匹敵するぐらいの件数があるだろう。
人口比で言えば絶対に大阪の方が多い。

ということは大阪にはギャンブルの下地がもともとあるということなのかもしれない。

この本には、そもそもビスマルクがカジノで負けなければ、第一次大戦も第二次大戦も起こらかったのではないか。
と浅田次郎らしい視点が登場したり、あのドストエフスキーが旅先でカジノにハマってケツの毛まで抜かれるほどに負けてしまい名著『賭博者』を書くはめになった。
などというカジノにまつわる逸話がいくつも書かれているので、ギャンブラーでなくとも楽しめる。

日本人をして
「タイム・イズ・マネーも結構ですが、タイム・イズ・ライフということもお忘れなく」
と言うカジノ経営者の一言は、いい言葉だなぁとは確かに思うが、だからって即ちギャンブルって言うわけでも無かろう、とも思う自分もいる。

って大阪カジノに水を差すわけでもなんでもなく、府市統合も大阪カジノもうまく行くに超したことは無い。
大阪府民であり且つ大阪市民として応援しよう。

ただ、ビスマルクではないが、他所の国の将来の国家元首が来て、大負けさせたために第三次世界大戦勃発!なんていうオチだけは御免蒙りたいものである。


カッシーノ!  浅田 次郎 著