カテゴリー: ア行



薬指の標本


読んだあと、奇妙で怖い夢を見たような気分になりました。

ざっとあらすじ。
主人公の女性はソーダ工場で働いていましたが、あるとき機械に指を挟まれて薬指の一部を失います。
切断された肉片は機械に飲み込まれ、流れた血がソーダを桃色に染めます。
女性はソーダ工場を辞め、新しい土地で標本室の受付の仕事に出会います。
仕事は簡単なもので、持ち込まれるものがどんなものであっても、
標本にできますと答え、それを受け取るというもの。
標本を作るのは一人の標本技術士。
標本技術士の不思議な魅力に女性はいつの間にか飲み込まれていって・・・。

標本にして欲しいと持ち込まれるものは様々。
多くは辛い思い出が残していった残骸たちです。
できた標本は標本室に保管され、依頼者が見に来ることはほとんどありません。
大抵の依頼者は標本になったことで安心して、先へ歩みだします。

どんなものでも標本にする標本技術士がとても不気味。
主人公の女性の薬指を興味深く眺め、失われた一片に関心を示します。
標本技術士の異様な雰囲気は、生きているものよりも失われたものへの関心が強いように思われるからかもしれません。

私は体の一部を失った事はありませんが、
それなりに元には戻らないであろうやけどをしたことがあります。
今でも傷を見ると、若干残念な気分になりますが、
戻らないものにいつまでも心を支配されるわけにはいかないので、
忘れるよう気持ちを動かします。
標本技術士は、毎日のように依頼者が忘れたいと願った傷と対面して、
それを自分の周りの標本室に保管し続けているわけですから、
不気味なのも仕方ないかもしれません。

結末はちょっと青髭的で、特に納得したりはっきりした落ちがあったりするわけではないのですが、不思議にすとんとお腹におさまる物語です。
悪い夢を見たような、でも眼ははっきり覚めていたような感覚。
薄暗く閉鎖的な空間でありながら、その情景が鮮やかに眼に浮かぶようなのも不思議です。

この「薬指の標本」はフランスで映画化されました。
見ようかなとも思ったのですが、
私の頭の中に浮かんだ「薬指の標本」の情景はそのままにしておきたかったのでまだ見ていません。

原作には比較的忠実な映画だそうなので、
フランスから見た「薬指の標本」の情景を見るのもおもしろいかもしれません。

薬指の標本 小川洋子著



カッシーノ!


カッシーノとは知っている人は知っているカジノのこと。
浅田次郎がモナコから始まってイタリア各地、フランス各地、オーストリア各地、そしてロンドンと、ヨーロッパを股にかけてカジノ巡りをし、ギャンブル三昧の旅行を楽しんだ一冊。

なんとまぁ豪快でゴージャスなことだろうか。

浅田次郎と近い世代で言えば村上龍なども以前は若者雑誌向けの連載もので世界を飛び回って贅沢三昧をする話を書いていたし、新しいところで「案外、買い物好き」という本では、イタリアへ行って、シャツを何十枚単位で大量買い、靴をまとめて何十足と豪快な買い物ぶりを披露していたが、浅田次郎のようなギャンブルの世界へ踏み込んだ類は読んだことが無い。

浅田次郎自らは、自分は小説家がたまたまギャンブルをしているのでは無く、小説を書くギャンブラーなのだ、とのたまう。

さて、何ゆえ今になって「カッシーノ」なのか。
この本は2003年刊なので、近著というにはちと遠い。

それは、橋下大阪府知事が「大阪カジノ構想」というものをぶちあげている最中だからに他ならない。
かつて石原東京都知事も「カジノ構想」を語っていたはずだが、あれはいったいどうなったんだろう。

一言でカジノと言ってもそのスタイルたるや、各地域地域にて全く趣きを異にする。
もちろん観光客目当てが大半だろうが、オーストリアのカジノに見られるような、来るなら来い、という姿勢のところ。入場料ならぬ、入り口チップを買わなければ入らせないというのは、立見の観光客を排除するのが目的。

タキシードに蝶ネクタイなどという正装で無ければ入れないところなどは、一般の観光客には敷居が高すぎる。

フランスのように、郊外のリゾート地でしかカジノを開設してはならない、という取り決めのところが大半であるが、中にはロンドンのように街中の至るところにカジノがあるようなところ有り。
但し、ロンドンのカジノはすべからく会員制。
中には50万ポンド(書かれた当時のレートで約1億円)を一晩で賭けることが条件のところなども紹介されていて、それこそどんな連中が遊ぶんところなのか、桁が違いすぎて呆れてしまうほどである。

それにしても、大阪の人間がタキシードを着て、蝶ネクタイをしてカードに興じる姿というのは想像するに難いものがある。

この「カッシーノ」に次ぐ第二弾「カッシーノ2!」という本では、イスラム圏内の各地のカジノなども紹介されている。

こちらのスタイルはどうか、というと徹底的に外貨獲得に徹している。
まず、地元の人は入れない。
それになんということか、現地の通貨が使用出来ない。

米ドルを使用せよ、という。無ければ円でも良いなどと。
カジノがあるホテルでも現地通貨から外貨への換金はしてくれない。
カジノでドルや円をたんまり使わせても外貨獲得。たまたま、客に勝たせてやったところで、現地通貨から外貨への換金が行われないのだから、その国で全て使って帰れということなのだろう。

現地通貨に換金し過ぎて、その余りで散財してやろうか、という輩は入る余地がない。

大阪カジノ構想というものには総論賛成なのだが、はてさて、大阪カジノはいったいどんなスタイルを目指すのだろうか。

ちなみに海外の人から言わせると、「日本にもたくさんカジノがあるじゃないか」と言われるらしい。
つまりパチンコ屋さんのこと。
あれだけ、街中の至るところに、しかも全国的にカジノがある国も珍しいと。

パチンコは日本独特のカジノスタイルなのだそうだ。

そのパチンコ屋さんの件数で言えば、大阪には首都東京と匹敵するぐらいの件数があるだろう。
人口比で言えば絶対に大阪の方が多い。

ということは大阪にはギャンブルの下地がもともとあるということなのかもしれない。

この本には、そもそもビスマルクがカジノで負けなければ、第一次大戦も第二次大戦も起こらかったのではないか。
と浅田次郎らしい視点が登場したり、あのドストエフスキーが旅先でカジノにハマってケツの毛まで抜かれるほどに負けてしまい名著『賭博者』を書くはめになった。
などというカジノにまつわる逸話がいくつも書かれているので、ギャンブラーでなくとも楽しめる。

日本人をして
「タイム・イズ・マネーも結構ですが、タイム・イズ・ライフということもお忘れなく」
と言うカジノ経営者の一言は、いい言葉だなぁとは確かに思うが、だからって即ちギャンブルって言うわけでも無かろう、とも思う自分もいる。

って大阪カジノに水を差すわけでもなんでもなく、府市統合も大阪カジノもうまく行くに超したことは無い。
大阪府民であり且つ大阪市民として応援しよう。

ただ、ビスマルクではないが、他所の国の将来の国家元首が来て、大負けさせたために第三次世界大戦勃発!なんていうオチだけは御免蒙りたいものである。


カッシーノ!  浅田 次郎 著



晩夏のプレイボール


ちょっと季節はずれではありますが、夏の甲子園を目指す高校球児を主人公とする小篇が10篇ほど。

高校野球は季節はずれでも高校サッカーや高校ラグビーはこれからが全国大会。
アメフトのように出場チームの少ないスポーツならリーグ戦で一度負けてもまだ先があるが、野球やサッカーのような出場校の多いスポーツは過酷だ。
トーナメント。この制度はたった一つだけの勝者の椅子を争って、残りの何千校はどこかで必ず敗者になり、その舞台から姿を消す。

全国でただ一つのその椅子を目指している学校はまず稀だろう。
目指すのはまずは全国大会への切符。
野球ならもちろん甲子園への切符。

高校のスポーツというのは何か特別なものを感じる。
高校3年間とはいえ、野球であれば夏の甲子園まで2年とほんの数カ月。
サッカーの場合は、全国大会の選手権を目指すのはスポーツ推薦を目指す選手や、高校、大学とエスカレーターになっている一部の私学は別だが、一般の大学進学を目指す選手たちは大抵、春のインターンシップ予選で敗退したところで引退が決まる。

その最後の大会での全国出場を目標に中学時代から、もしくは小学生から、中には幼稚園時代からずっと練習して来た選手も居るだろう。

なんだろう、あの高校時代ならではの最後の大会に負けた時に感じる「あぁ、これで終わったな」という感じは。
他の大会、中学でも大学でももちろん社会人でも感じたことがない、あの「終わったな」という独特の感じ。

野球はまだ同点なら延長戦をしてくれる。
キッチリと負けを認めさせてくれる。
高校サッカーの場合は全試合の三分の一近くは同点の末、PK戦で勝者が決まる。

一点も失点していなくても・・・
こちらのゴールが脅かされることなど一度もなくて、押して押して押しまくって相手はかろうじて失点を免れたに過ぎない相手であっても、いやそんな試合ほど、PKの神様は逆を指名する。
今年の駒野ではないが、PKを外した選手は茫然自失状態。
誰も責めてなどいない。
どちらかのチームの誰かがはずさない限りは終わらないのだから。
誰かが、その「はずした」という咎を被らないことには終わらない。
なんて酷な体験を高校生にさせているのだろう、と見るたびに思うが、それもやがては苦くて貴重な思い出となって行く。

ついついサッカーに逸れてしまうが、この本はもちろんサッカーのことなどは一文字も出て来ない高校野球の話である。
それでも思いとしては同じ高校スポーツとして通じるものがある。

この本に10篇の物語がある如く、全国の何千校の球児たちにも何千の物語があるのだろうし、サッカーにも他のスポーツにも毎年、何千の物語が生まれているのだろう。

そんな何千何万の思いを集約したかのような短篇集。

あさのあつこという人、良くこれだけ高校球児に思い入れがあるものだ、と感心してしまう。
「女の子はグラウンドに立てないのか?」と中学を目前にショックを受ける小学生野球少女が登場するが、それこそ、あさのあつこさん本人じゃなかったのだろうか。
などと勘繰ってしまう。

どの話もなにか胸に来る話ばかりではあるが、最初と最後がやはりいい。

「終わってない。まだ俺たちの夏は終わってない」それは簡単に諦めるなよ、という若者達への強いメッセージでもある。


晩夏のプレイボール あさのあつこ著