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無理


東北のある地方の町が舞台の物語。
3市町村の合併で出来たそれぞれの頭一文字ずつをとってその名も「ゆめの市」。
「夢の」とは名ばかりで、現代の地方都市ならその中のいくつかは必ず心当たりが有りそうな問題山積みの全く夢の無い町なのだった。

財政赤字、高齢化、シャッター通り商店街、高福祉と名を変えた住民エゴ・・・。

生活保護受給者が急増し財政をひっ迫させているため、生活保護の不正受給を減らそう、と取り組む社会福祉事務所に勤める男は、日々その受給者(彼らはケースと呼ぶ)の我がままに辟易とする毎日を送る。

ケースに呼び出されたかと思えば、テレビ映りが悪いからなんとかしろ、だの。

ある受給者は無職の女性で子供が二人。亭主とは離婚して収入なし。
その受給額はなんと23万円。しかも医療費も全額無料。
働かないことが理由でそれだけもらっている人間が額に汗して働こうという気になるわけがない。

そうかと思えば、受給者であるのをいいことにパチンコ屋通いをする男が居たり・・・。

そんなケースワーカーの苦難があるかと思えば、途端に場面が変わる。

元暴走族たちを社員にして、ほぼ詐欺と言ってもいいような商法で商品を売り付けてる会社とその会社のセールスマン。
ほぼ詐欺とはいえ、働いてお金を稼ぐ、儲ける、という喜びを見いだした地方の若者の姿である。

そうかと思うとスーパーでの万引きを捕まえる保安員の仕事をする中年の女性。
孤独を紛らわすためなのか、新興宗教に溺れて行く。

はたまた、こんな町絶対に出て行ってやる、と東京の大学へ進学する事を心に誓う女子学生。

地元への公共事業誘致という従来の政治手法にすがる市議会議員。

この同じ市に住む5人がそれぞれ別の物語を入れ替わりばんこに主人公となって物語をすすめて行く。

ブラジル人の労働力を頼りにする製造業誘致のために、町にはブラジル人の若者が増え、地元の暴走族と諍いを起こすさま。

引退したはずの市会議員が道路拡張話に親戚の土木会社を割り込ませようとごり押しをするさま。

富裕層向けのインフラのなさ。

出て来る話、いつかどこかで聞いたような地方の悩み話ばかりなのだ。

電気製品が使えないとケースワーカーを呼びだすジイさんの言い分は、電気屋に頼むにも金が無い、車が無いので修理に持って行けない、家電量販店に電話したら寿命だから買い換えろ、と言われる・・・
だからと言って税金でメシを食っている役人をこき使っていい理由にはならないのだが、そこらあたりにも、地元の気軽に修理を頼める電気屋さんが無くなったという時代の描写なのだろう。

この本のタイトルの「無理」というのは、登場人物それぞれの立場で、現状を打破しようとした結果、最後に出た結論が「無理」という諦めに持って行く話なのではないだろうか。
などと勝手に想像していたのだが、だんだんと話が込み入って来る。

頭のいかれた引きこもりの誘拐犯。
これも頭のいかれた受給候補の男。
破棄物処理施設建設反対を訴える市民団体のオバさん達。
新興宗教同士の信者争奪戦。

そしてそれぞれの主人公達が同じような犯罪に手を貸したり、被害者になったり、付き合わされざるを得なくなったり・・・。
と急展開は良かったのだが、最後がちょっといただけない。

その終結ってどうよ、と思ってしまうような終わり方なのですよ。
出だし好調で、ぐいぐい読ませて頂いただけに、ちょっとだけ残念だったかな。

無理  奥田 英朗 著



幸福を知る才能


京都に「ソワレ」という喫茶店があって、その喫茶店には東郷青児さんの絵がたくさん飾られています。

彼の絵にあまり興味はないのですが、大学時代に先輩がアルバイトをしていたので何度か足を運びました。

この本を母にもらって、しばらくは興味がもてなくてほったらかしていたのですが、ぱらぱらっとめくったら東郷青児さんの名前が見えて、なんだか気になったので読み始めました。

でも、この本は東郷青児さんにについての本ではなくて、彼とも親しかった宇野千代さんの本。
宇野千代さんのエッセイです。

宇野千代さんは作家ですが、なかなか波乱に満ちた人生を送った方のようで、東郷青児さんとの恋愛もなかなかドラマチック。

別の女性と心中未遂を図ってすぐの東郷青児さんと出会い、その日のうちに彼の家へ行き、一緒に暮らし始めたそうな。
家には心中未遂の時にできた真っ赤な血に染まったシーツがあって、それを見て一緒に暮らそうと思ったというから、世の中いろいろな人がいるものです。
これが運命の出会いで、一生を東郷青児さんと共にしたのかと思えば、4年ほどで別れて、また他の男性といろいろな恋愛模様を繰り広げます。

これだけドラマチックな人生を送った人は、ドラマチックな人となりなのだろうと思ったのですが、本を読み進めてみるとそうでもない。

でも、恐ろしく前向き。
そして打たれ強い。

ドラマチックな人生を送った人は、それにに耐えうるガッツのある人なのでしょう。
宇野千代さんなんて98歳まで生きているわけですから、きっと相当なガッツの持ち主。

そして、ドラマチックな人生を乗り切っていくには、あらゆる出来事の主導権を握る事、もしくは握っていると思い込むことが大事なのかもしれません。

宇野千代さんの離婚十戒というのがこちら。

第一条 妻はその新婚生活の始めから、ただ一刻も夫の傍らを離れることなかれ。
第二条 妻はその夫の最初の浮気の時、徹底的に、めちゃくちゃにヤキモチをやくこと。夢にも『あたし、あなたを許すわ』などと言うことなかれ。
第三条 家庭の中を警察署にすることなかれ。
第四条 ケンカしてくしゃくしゃした時に、直ぐに表へ飛び出すことなかれ。
第五条 『あなたと違ってあたしだけはいつも正しい人間よ』と言う風にすることなかれ。反対に、妻はいつでも、夫の悪いことの共犯者になることです。
第六条 夫の描く夢を、方っ端から叩き潰すことなかれ。
第七条 夫の欠点を夢にも言葉に出すなかれ。また心の中でも、繰り返して考えることなかれ。夫に関してはオノロケ以外は口にすることなかれ。
第八条 絶えずブツブツこぼしていることなかれ。
第九条 いつもどこか体の調子が悪い、と言って訴えることなかれ。
第十条 何事にも、陰気で深刻な表情をすることなかれ。

夫を逃がさないための必死な十戒ではなくて、ちょっと賢く振舞えば、うまく物事運べますよというアドバイス。

夫の浮気で一人耐えて悲しみに暮れるより、「めちゃくちゃにヤキモチ焼いたほうが、この先だんなさんは浮気しにくくなるみたいだから焼いておくか」
くらいの気持ちでしっかり手綱を握ってしまうわけです。

実際、そこまでタフにはなれませんが、自分の人生の行方を自分以外のもののせいにしていると、楽しめるものも楽しめないのかもしれません。
せっかくだから、自分の人生の主導権をしっかり握って、いろいろな出来事を楽しく乗り切っていきたいと思ったのでした。


幸福を知る才能 宇野千代著



ルポ最底辺-不安定就労と野宿


ドキュメンタリーです。
この著者は取材者なのではない。
実際に20年間、大阪釜ヶ崎に通いつめたのも凄いことだが、そこで単に取材作業を行うのではなく、自らが手配師に口を聞いてもらい、自らが日雇い労働者としての現場作業を体験して来ているのだ。
並の人間にはなかなか出来る事ではない。

著者は大学2年生の時に初めて釜ヶ崎へ行くのだが、冒頭に初めて釜ヶ崎近辺へ行った時の驚きの様子が記されている。

大阪在住の我々でさえ、しょっちゅう天王寺界隈をうろうろしていたにも関わらず、JR新今宮駅の階段を下りて行った時のすえた様なにおいにまず驚き、そこから動物園前駅までのわずかな距離を昼間の時間に歩く間だけだって、素手の手で熱いだろうにお粥さんをすすっている男性に出くわしたり。
「兄ちゃん、タバコ頂戴や」というオジさんに出くわしたり、と驚くこと多々であったし、昼間でそうなのだから、暗くなってから歩こうものなら、何やらずた袋があると思ってひょいと跨ぐとそれは人だったり、人を踏んづけないように気を付けて歩かなければならないところだった。
高校の頃、西成の萩ノ茶屋というところから通っている友人が居り、そいつななどは自らの出身地域を笑いのネタにかえてたっけ。
三角公園の近所ではなぁ、車に乗ってる連中は誰ひとり、信号でも止まれへんねんど!
信号で止まったら最後、あっと言う間に囲まれて進まれへんようになるからな。
とか。
俺の家の近所では雀は一羽も居らん。
雀どころかきらわもんのカラスも居らん、フンが公害やと不人気の鳩も居らん。
のら犬、のら猫、一匹も居らん。
わかるか?
連中もここへ来たら食われてまうのんがわかってるから近づけへんねん。
と彼独特の地元自虐ネタを披露していたのを思い出す。

そういう彼も別に野宿生活を送っているわけでもドヤに住んでいるわけでもなく、満足な暮らしをしていたわけなので、この著者に言わせれば、彼もまた釜ヶ崎への偏見を持った人間ということになってしまうのかもしれない。

生田というこの著者の体験談から言えば、釜ヶ崎を怖いと思うどころかその周辺に野宿をする人々はあまりにも優しく、あまりにも正直で不器用なくらいに正直な人達だったという。
正直者が馬鹿を見るならぬ「正直者は野宿をする」のが現実だった、と語っている。
また日雇いの仕事でも一旦仕事をし始めると、彼らはプロ中のプロだったということも著者の驚きの一つだった。

まさに彼らは不当な扱いを受けていた。
少年達からは襲撃される。
警察はそんなところに寝ているからだ、と取り合わない。
地域住民はどこへ行っても彼らを嫌い、蔑む。

著者は現場仕事もしながら、野宿者への支援活動を行い、やがては支援活動が主になって行く。
「大変でしょう。生活保護を受けたら」とホームレスの人に勧める場面で、「なんとか廃品回収でメシが食えるから」とそれを拒む人に何度も出会う。
原宏一という人が書いた「ヤッさん」という小説にはホームレスでありながら、食材の情報提供者として生きる男の矜持が描かれていたが、もちろん小説と同一視するわけではないが、ホームレスでと言ったって、定住する家を持たないという以外は何が人と違うのか。
今のご時世、国やら行政に助けてもらえるなら、いくらでも助けてもらおうという人がいくらでもいるさなか、人様の世話になりたくないという矜持を持っているその人達はまさに冒頭で著者が述べた如くに不器用なくらいに真面目な人たちなのだろうと思う。
なんとか廃品回収でメシが食えると言ったって、一日10時間働きづめに働いても1000円になるかどうか。
それでもメシが食えるからいい、というのだ。
なんだかなぁ。
ひたすら、貧しくとも自ら働いた金でメシを食う人は極貧の生活で、片や子供が居て生活保護を受ける人は住宅扶助なんかも入れれば10万~20万の収入を得、さらに現政権の作った子供手当・・か。
先日も中国から40数名が入国直後に生活保護申請で問題になったっけ。
いやそれはちょっと論点が違うか。

支援者の人はくりかえし繰り返し、生活保護を受ける様に説得してまわっている。
彼らの仕事は崇高なものなのだろう。

でもそれだけではどうしたって抜本的解決には繋がらない。
上述した、地域住民の偏見、行政担当者の偏見、少年達のゲーム感覚の襲撃の根絶などは言うまでもないだろうし、いわゆる貧困ビジネスと言われる、ホームレスの人達をを食い物にするビジネスの根絶ももちろんだろう。
だが、それでも解決とは言えない。
著者自身、バブル期直線からバブル後の今日まで釜ヶ崎を見て来て思うはずである。
単に生活保護を受給してもらうことだけが解決の道ではないと。
昨年(2009年)末の全国の生活保護受給者が130万世帯を超え、その中でも断トツなのが大阪市。
このまま受給者を増やすことがまさか解決策であるはずがない。
バブル前でさえ、野宿をしながら日雇い労働をする人の中には半年もたたずに50~60万を貯めては、一ヶ月間の海外旅行へ行く人、3年間で5~6回海外旅行を楽しむ人なども居たのだ。
こういうひと達は好きでその仕事とその生活を送っていた。
なんだかんだと言って結局は景気じゃないか。
景気が上向きになることが、最終的な解決策ってか。
なんだか絞まらない結びになってしまった。