カテゴリー: ア行



ルポ最底辺-不安定就労と野宿


ドキュメンタリーです。
この著者は取材者なのではない。
実際に20年間、大阪釜ヶ崎に通いつめたのも凄いことだが、そこで単に取材作業を行うのではなく、自らが手配師に口を聞いてもらい、自らが日雇い労働者としての現場作業を体験して来ているのだ。
並の人間にはなかなか出来る事ではない。

著者は大学2年生の時に初めて釜ヶ崎へ行くのだが、冒頭に初めて釜ヶ崎近辺へ行った時の驚きの様子が記されている。

大阪在住の我々でさえ、しょっちゅう天王寺界隈をうろうろしていたにも関わらず、JR新今宮駅の階段を下りて行った時のすえた様なにおいにまず驚き、そこから動物園前駅までのわずかな距離を昼間の時間に歩く間だけだって、素手の手で熱いだろうにお粥さんをすすっている男性に出くわしたり。
「兄ちゃん、タバコ頂戴や」というオジさんに出くわしたり、と驚くこと多々であったし、昼間でそうなのだから、暗くなってから歩こうものなら、何やらずた袋があると思ってひょいと跨ぐとそれは人だったり、人を踏んづけないように気を付けて歩かなければならないところだった。
高校の頃、西成の萩ノ茶屋というところから通っている友人が居り、そいつななどは自らの出身地域を笑いのネタにかえてたっけ。
三角公園の近所ではなぁ、車に乗ってる連中は誰ひとり、信号でも止まれへんねんど!
信号で止まったら最後、あっと言う間に囲まれて進まれへんようになるからな。
とか。
俺の家の近所では雀は一羽も居らん。
雀どころかきらわもんのカラスも居らん、フンが公害やと不人気の鳩も居らん。
のら犬、のら猫、一匹も居らん。
わかるか?
連中もここへ来たら食われてまうのんがわかってるから近づけへんねん。
と彼独特の地元自虐ネタを披露していたのを思い出す。

そういう彼も別に野宿生活を送っているわけでもドヤに住んでいるわけでもなく、満足な暮らしをしていたわけなので、この著者に言わせれば、彼もまた釜ヶ崎への偏見を持った人間ということになってしまうのかもしれない。

生田というこの著者の体験談から言えば、釜ヶ崎を怖いと思うどころかその周辺に野宿をする人々はあまりにも優しく、あまりにも正直で不器用なくらいに正直な人達だったという。
正直者が馬鹿を見るならぬ「正直者は野宿をする」のが現実だった、と語っている。
また日雇いの仕事でも一旦仕事をし始めると、彼らはプロ中のプロだったということも著者の驚きの一つだった。

まさに彼らは不当な扱いを受けていた。
少年達からは襲撃される。
警察はそんなところに寝ているからだ、と取り合わない。
地域住民はどこへ行っても彼らを嫌い、蔑む。

著者は現場仕事もしながら、野宿者への支援活動を行い、やがては支援活動が主になって行く。
「大変でしょう。生活保護を受けたら」とホームレスの人に勧める場面で、「なんとか廃品回収でメシが食えるから」とそれを拒む人に何度も出会う。
原宏一という人が書いた「ヤッさん」という小説にはホームレスでありながら、食材の情報提供者として生きる男の矜持が描かれていたが、もちろん小説と同一視するわけではないが、ホームレスでと言ったって、定住する家を持たないという以外は何が人と違うのか。
今のご時世、国やら行政に助けてもらえるなら、いくらでも助けてもらおうという人がいくらでもいるさなか、人様の世話になりたくないという矜持を持っているその人達はまさに冒頭で著者が述べた如くに不器用なくらいに真面目な人たちなのだろうと思う。
なんとか廃品回収でメシが食えると言ったって、一日10時間働きづめに働いても1000円になるかどうか。
それでもメシが食えるからいい、というのだ。
なんだかなぁ。
ひたすら、貧しくとも自ら働いた金でメシを食う人は極貧の生活で、片や子供が居て生活保護を受ける人は住宅扶助なんかも入れれば10万~20万の収入を得、さらに現政権の作った子供手当・・か。
先日も中国から40数名が入国直後に生活保護申請で問題になったっけ。
いやそれはちょっと論点が違うか。

支援者の人はくりかえし繰り返し、生活保護を受ける様に説得してまわっている。
彼らの仕事は崇高なものなのだろう。

でもそれだけではどうしたって抜本的解決には繋がらない。
上述した、地域住民の偏見、行政担当者の偏見、少年達のゲーム感覚の襲撃の根絶などは言うまでもないだろうし、いわゆる貧困ビジネスと言われる、ホームレスの人達をを食い物にするビジネスの根絶ももちろんだろう。
だが、それでも解決とは言えない。
著者自身、バブル期直線からバブル後の今日まで釜ヶ崎を見て来て思うはずである。
単に生活保護を受給してもらうことだけが解決の道ではないと。
昨年(2009年)末の全国の生活保護受給者が130万世帯を超え、その中でも断トツなのが大阪市。
このまま受給者を増やすことがまさか解決策であるはずがない。
バブル前でさえ、野宿をしながら日雇い労働をする人の中には半年もたたずに50~60万を貯めては、一ヶ月間の海外旅行へ行く人、3年間で5~6回海外旅行を楽しむ人なども居たのだ。
こういうひと達は好きでその仕事とその生活を送っていた。
なんだかんだと言って結局は景気じゃないか。
景気が上向きになることが、最終的な解決策ってか。
なんだか絞まらない結びになってしまった。



アナザー修学旅行


怪我やらなんやらで修学旅行に行けなかった3年生数人。
朝から学校で一つの教室に集められるが、授業があるわけではない。
修学旅行の代わりに奈良や京都の修学旅行コースのDVDを鑑賞させられる。

それにしてもまぁ、なんて真面目な中学3年生達なのでしょうね。
考えられない。
普通、修学旅行へ行けない状況なら、わざわざ学校へ出て来なくても、適当に遊んで過ごすんじゃないにかなぁ。
受験勉強に勤しみたい3年生なら、受験勉強にあてるだろうし、そんなことに興味の無い子なら、今どきなら自宅でゲーム三昧ですか。

いずれにしても真面目に学校へ出て来て、尚且つ校則を守ろうとするなんて・・。
校則からほんの少しはずれたことを行って遊ぶなんて、なんとまぁクソ真面目なこと。

修学旅行へ行けなかったのは、足を骨折した平凡な主人公の女子。
芸能人としてテレビドラマに出演しているため、旅先でファンに押し寄せられたら、との理由で取りやめた女子。
転校して来たばかりの女子。
直前に他校の生徒と喧嘩をして怪我をした男子。
児童養護施設から通っている男子と女子の計6名。

それに中学へ入学してからずっと保健室暮らしをしている男子1名が加わっての計7名。
皆が修学旅行へ行っているその数日間の間に、クラスもバラバラ。
ほとんど会話が成り立たないような集まりが、だんだんと一つにまとまって行くというお話。

児童文学の新人賞受賞作らしいが、なるほど、児童文学にならこういうお話がいいのかもしれない。

この人の作品を実際の中学生が読んだらどう思うのだろう。
大いに気になるところだ。

痛い小説だなぁ、と思われるのか。

感動しました、って思われるのか。

この小説の成否はまさにそこにかかっているのではないだろうか。

アナザー修学旅行 有沢佳映著  2009年講談社児童文学新人賞受賞作品



ちりかんすずらん 


父方の祖母と母と娘の3人暮らし。
父親はコロンビア女性と7年前に出奔し、母とは離婚し、現在コロンビアで新たな家庭を持ち、そんな父でありながら、父方の祖母と母が共に暮している。
妙な組み合わせのようで、この3人、相性がいいのだ。

タイトルの「ちりかんすずらん」。
「ちりかん」とはもちろん「地理感」のことも「塵缶」のことでもない。
日本舞踊でもしている人間が身近にいない限り、見たことのある人は少ないのではなかろうか。
かんざしの種類の中の一つで先の金物が当たりあってちりちり音のするもので、その音を小さな鈴にさせるものもある。
何を隠そう、身近に日本舞踊を習っていた人がいたことがあるので、小生はお目にかかったことはあるが、和服を着ている人をみかけても、このちりかんにはそうそうはお目にかかれない。
祇園の舞妓さんあたりならしているのかもしれないが、小生、そういう場への縁もゆかりもないのは少々残念である。
いや、小生が知らないだけで案外、成人式の時の和服女性はしていることがあるのかもしれないな。
「ちりかん」に「すずらん」がついているということはちりかんそのものが「すずらん」の花の形をしているものなのだろう。
そんな日本舞踊でもしない限り身に付けないものをプレゼントに贈る男というのはどんな神経の持ち主なのか。
いやはや、さほど重要に考えるものでもないわな。
モンゴルへ行って先の尖がった帽子を土産に買って来る輩もいるのだから。
どうやって、どこへ行くのに被ればいいんじゃい!などともらう立場などはお構いなしである。

てなこんなでタイトルの「ちりかんすずらん」はさほどストーリーには関係ない。
それを贈った男と不憫なすずお姉さん(実際には主人公母の妹なので叔母にあたるのだが年齢的にはお姉さん)の話が出だしで始まり、同じ主人公達による、小編がいくつか。
ただ、この作者は「すずらん」が好きなのかも、と思い当たるのは、すんなり読み飛ばしてしまうような箇所、例えば四編目の「赤と青」のなかにさりげなく、すずらんの花に似る風鈴がちりちりと鳴る風情が織り込まれていたりすることで窺がえる。

なんだか、とてもいい一家を見せてもらった気分になる作品だ。
お祖母ちゃんにしても夕方のある時間になると、ビールにするかい?と飲み始めるあたり、なんとも居心地の良さそうな雰囲気が出ていることこの上ない。

本来なら妻子を捨てて海外へ飛び出した男、という辛い立場のはずの父も平気で電話して来て家族の安否を尋ねるなどは、この一家ならではだろう。
フットマッサージ店をチェーン化しようという事業家の母は、この一家では父的な存在で、いつでも家を守る祖母が母的な存在だからなのだろうか。本当の父の出奔に戸惑った様子がない。
寧ろその方が自然だったみたいな。

話のそれぞれに家庭の温もりが伝わって来るのは、ストーリーのせいだけではないのだろう。
この作者、食べ物のことをとても大事に書いている気がする。

「ホオシチュー」という料理そのものが主題の小編はさておき、

・イカの身は箸をあてただけでほろりと割れ、ワタには滋味がある。

・冬瓜を薄味で煮含め鶏そぼろあんかけをかけたものと、・・牛肉とごぼうの時雨煮を出し・・。

・ふろふき大根をことこと煮ながらワインをちびちびやり、残り物のひじきの煮付けを入れた卵焼きと常備薬のしらたきのタラコ和えをつまんで・・・

本題のストーリーとは関係なく、至るところにこういう美味しそうな家庭の味を表現したくだりが全くさりげなく織り交ぜられている。
安達千夏さんという方、かつて芥川賞の候補作品を書いたということ以外には全く存じ上げないので、料理を作るのが上手な人なのかどうなのかなどは知る由もないが、祖母が作るような料理を大事に大事に思っておられる方だということが伝わって来、それが温かい家庭、家族を表現する上での何よりの味付けになっているのではないか、などと勝手に思っている次第である。

そんなこんなもありながらもやはり感想として、ついつい思ってしまうのはこの父親の存在か。
何のトラブルもなく、妻と娘を放って、コロンビア女性と家庭を持ち、コロンビアでは、妻と5人の娘を持ちつつも、長女である日本の娘(主人公)の結婚式前日に置き場所が無いほどの100本の赤いバラをお祝いのプレゼントとして送りつける父。

それで娘が嫁ぐから涙声だって?こんなにめでたく幸せな男はそうそういないだろう。

ちりかんすずらん(祥伝社)安達千夏 著