月別アーカイブ: 9月 2006



活動寫眞の女


京都を舞台としたお話。
時代は映画の全盛期が終わりを告げ、東京オリンピックを境に急激にテレビの時代に変わりつつある頃の学生達の話。
太秦の撮影所でアルバイトをしている彼らの前に現れたのは30年前に死んだはずの大部屋のエキストラ女優。
あまりにも美しすぎたために役が廻って来ない、なんて事があるのでしょうか。
百人の男がいたとしたら、百人が百人とも振り返ってしまうだろうというぐらいの美しさ。映画に出演させると観客はその女優に見入ってしまってもうストーリーどころでは無くなってしまうのだと言う。主役をも喰ってしまうほどの美しさ。
だから万年大部屋でセリフの一つももらえない。
そんな30年前の女優が目の前に現れる。
幽霊という扱いになっているが、これは幽霊のお話などでは無い。
愛すべき日本映画が無くなってしまう、という時代を背景にして最も活動写真が盛んだった頃に最も映画を愛しながらも力を発揮する事の出来なかった人々が時空を越えて、映画最後の時代に何かを刻みたかったのでないだろうか。

浅田次郎の作品で時空を越える作品と言えば「地下鉄に乗って」がある。
この作品は何度もタイムスリップを繰り返し、若かりし頃の兄に出会い、若かりし頃の父に出会う。古き時代をなつかしむノスタルジックな作品。

そういう意味ではこの本も映画ファンにとってはたまらない古き時代を懐古するノスタルジックな作品と言えるだろうか。

この作品是非とも映画化されて欲しいものだが、無理な注文というものなのでしょうね。なんと言っても見入ってしまってストーリーどころでは無くなってしまう女優がいなければならないのですから。

活動寫眞の女  浅田次郎著



マークスの山


行きつけの本屋で「李歐」と「マークスの山」が平積みにされていたので、何も考えずにまず購入してしまった。
購入した後で高村薫、高村薫、高村薫、高村薫・・どこかで聞いた覚えがあるな・・そうだ、レディジョーカーの作者では無いか。
あの「グリコ森永事件」を題材にほぼこれが真相に近いのでは無いかと思われる様な物語を書いた人だ。
「グリコ森永事件」と言うともうはるか前の事の様であるが、あの事件は地域性も身近であり、「けいさつのあほどもへ」で始まる挑発的な挑戦状が新聞トップを飾っていたのも印象に残っている。
あの事件を書いた高村薫の本か。と李歐をまず読破。
新しい形の美しく壮大な青春の物語だのなんだのっていう歯の浮いた様な誉め言葉が帯に書いてあったっけ。
そんなたいそうな、というのが実感。この本がそもそも書かれたのは大分以前であろうから、その頃にしてみれば現在頻繁に発生している中国人犯罪を予見していたと言う事だろうか。
出張など長旅のお供には丁度いい本かもしれませんよ。

さて、いきおいで買ったもう一つの「マークスの山」。
この本で面白いところは、警視庁という組織の有りようが良くわかるところだろうか。
同じ捜査一課でも係りが違えば、他所の組織となって情報のやり取りすらスムーズには行われない。
東京で発生した連続殺人。その関係者を調べて行くと、必ずや行き当たるのが某大学登山部の同期生。
各々が地位ある立場となった人達だ。またその人達も次々と死んで行く。
捜査に乗り出した刑事は上からの圧力との戦いをしなければならない。
犯人は自らをマークスと呼ぶ青年。
二重人格者なのか多重人格者なのか、それとも大人しい性格の時は、単に芝居をしていただけなのか、ついに最後までわからない。
結局、一連の事件の背後には十数年前、その地位ある人達まだ学生だった時代に遡る。

詳細は書かないが、事件の解明に至るのは、同期の登山部の卒業生の医者(病院長だったか)が、書き残した遺書である。
なんともはた迷惑な遺書を残したものだ。
同じ同期の登山部仲間と南アルプスへ登山した際に、同行した一人を不幸にも死に至らしめてしまった事について、遺書の中で詫びたいというのなら、その人に対する哀悼の念だけを書けば良いだろうし仲間の事も書く必要は無いだろう。
ところがこの医者、自分が癌で先が無いからと遺書を書くのはいいが、あまりにも饒舌なのである。
仲間の学生時代の秘密、裏口入学で入った事やら、交通事故のもみ消しが有った事やら、墓場まで持って行けばいい様な事を全て暴露しているのだ。全く遺書としては書く必要の無い事を書いている。
そういう内容の事を書き残す事で、それが少しでも漏れれば、仲間であったかつての同級生にどれだけ迷惑がかかるか、想像すればわかるだろうに。またそんなものどこから漏れるか知れたものじゃない。
自分の死を直前にしての仲間への裏切りであり、最後っ屁としか思えない。
この本上下巻の長編なのだが、作者は刑事に突き止めさせる努力を怠ってしまったのだろうか。

捜査会議の描写やら、キャリア対ノンキャリ。各捜査班同士の対立など、現実的に見える箇所がふんだんにあっていろいろな圧力の中苦労して捜査する過程を散々書いておきながら、この様な非現実的で一足飛びで真相解明の遺書の登場。
そして、犯人の青年についても記憶障害という病気でありながら、綿密な計画を立てて実行して行く過程についても結局非現実的のまま終ってしまった。

やっぱり、現実にあった事件をモチーフとしないとレディジョーカーの様な作品は生まれないのかなぁ。



ラッシュライフ


伊坂幸太郎続きになってしまいました。
「重力ピエロ」の感想はちょっと手厳しすぎますよね。
クロマニヨン人とネアンデルタール人の芸術論は壁の落書きを消す仕事をしているハルの事を語るには必要だったのでしょうし、ピカソの死んだ日に生まれたハルにはピカソの話は欠かせない。ガンジーを尊敬するという生き方を語る上でもガンジーの話はあった方がいいでしょう。
それぞれの必然があって登場させているのでしょう。
バタイユを語っていた探偵ならぬ泥棒さん、このラッシュライフにも登場しているんですよ。
それより何より、文化と書いてハニカミというルビを振る云々の太宰の文章がこのラッシュライフに出て来た時にはさすがに驚きました。
なんと言う偶然!

さてこのラッシュライフという話、かなり凝った作りであります。
異なる登場人物が異なるシチュエーションで登場して来るケースは本や映画では良くある事なのですが、それらがどこかで合体して行きますよね。
それまでの間、読者はかなりじれったい思いをするわけですが、この本の場合、そのじれったさをなかなか解消してくれないんですよ。
本の半ばまで来てもまだ掠る程度。
「重力ピエロ」で登場した泥棒さんは、後々盗まれた人が自分に恨みを持った人間の犯行ではない、と安心させるためにキチンといくらどこから持って行きました、というメモを置いて帰る、という几帳面な泥棒さん、しかも百万の札束がいくつかあってもその中のニ、三十万を抜くだけに留めるという謙虚な泥棒さん。
通常、百万の札束がいくつかあった中のニ、三十万ならメモなど残さなくてもまさか泥棒なんてと、思い違いか何かだろうで、済んでしまうでしょうに。
実際にそうやって、同じ所へ繰り返して入る手口も実際にあるのでは・・と思ってしまいます。
その泥棒さんの話が出たかと思うと、場面は変わってリストラされて失業者となり連続40回も就職に失敗した男の話、はたまた精神科医の女医と現役のサッカー選手が共謀して殺人を企てている話、かつて連続犯罪の謎を解き明かした事で一躍名探偵と話題になった人とそれを神と崇める新興宗教の信者の様な人達の話、金で買えないものは無いと考える大金持ちの画商・・・
それぞれが最初は全く繋がっていない。唯一仙台という場所だけが繋がっているものが、いつ繋がんだろう、いつ繋がんだろうと思っているうちにそれぞれの話が進行して行き、最終的には全てが繋がるのは一番最後。
しかも個々の話は時間差があって、ある人の話は別の人の話の数日前に有った事を引き継いでいたり、またこっちの人の話はその数日後を引き継いでいたりする。
そしてちゃんと全部繋がっているのです。
なんともはや凝った作りなのです。
途中までのじれったさはさておき、充分に楽しませてもらいました。
こういうのもやはりミステリーと言うのですかねぇ。

ラッシュライフ 伊坂幸太郎著