月別アーカイブ: 11月 2007



ハッピーバースデー命かがやく瞬間


これは児童文学です。

児童文学ですが、大人に読ませたくなる様な本です。

まだ十一歳の娘に「生まなければ良かった」
などと平気で言ってしまう親というのはどういう親なのでしょう。

幼い娘(あすか)はその言葉を聞いて声をなくしてしまう。

結局、あすかはじいちゃん、ばあちゃんの家へ静養しに行く。
自然の豊かな環境の中で優しい祖父母の言葉に助けられ、あすかはだんだんと心を取り戻して行きます。

じいちゃんはあすかに言います。
「おこるときは思いっきりおこれ。悲しいときは思いっきり泣け。がまんなんかするな」

数ヶ月後、あすかは声を取り戻し、これまでよりはるかに心の強い子供になって都会へ帰り、イジメの子供を救済し、イジメをしていた子供も救済し、養護学校で友達の誰も居ない表情の無い子供に笑顔をもたらし、その養護学校の先生までも励まし、最後までなかなか変わろうとしなかった父と母さえ最期には変えてしまう。

そう。あり得ない話なのです。
あすかの様な存在が居ればどんなにいいだろう、という夢物語です。

あすかは祖父の存在に助けられましたが、大抵の子供は親に傷つけられたらそのまま傷ついたままなのでしょう。
作者はこんな状況に子供達を親達が追いやっているのですよ、と訴えたいのでしょう。

給食費を払わない親が増えているのだそうです。給食費を払わないが文句だけは一人前どころか十人分の文句を学校へ言って来るのだそうです。

再教育が必要なのは親の方なのかもしれません。

ハッピーバースデー―命かがやく瞬間 青木和雄 作



グラスホッパー


その男の前に居るだけで暗い闇の中にいる様な気分になる。
その男を前にすると誰もが絶望的な気分になる。
どれだけ図太い人間でもその男を前にすると自分の中に抱えている罪悪や無力感が増長し、あぁ、死んだらどれだけ楽なんだろう、と、目の前に居る人間を自殺に追いやる、という特殊能力を持った「自殺屋」。
もちろん、自殺に追い込むのが仕事なので、自ら暗闇に入っていかない人間には、生き残った場合、家族の住む家が全焼したり・・などと言う例をあげてでも自殺に追い込むという非常に奇矯な商売。
天性の能力無くしては絶対に成り立たない。

この話、いろんな種類の殺し屋が登場します。
「自殺屋」の次には「押し屋」。
車の通りの多い交差点や電車待ちの混み合ったホームで後ろからチョンと押して道路へ飛び出したところを車が轢く。電車に撥ねられる。
それを商売している。

「鯨」と呼ばれる自殺屋、押し屋、一般的なナイフを持っての殺し屋、ここでは「蝉」という名を持って登場します。
また劇団という人達。

ある企業の会社社長のアホ息子のお遊びがてらで愛する妻を車で轢かれた男がその復讐のためにその会社の契約社員となる。
その男が「鈴木」

その「鈴木」「鯨」「蝉」各々が主人公となったストーリーが交互に登場します。

いつもの伊坂作品なら最初はバラバラの主人公がだんだんと結びついて行く展開なのですが、今回はちょっと違う。
「押し屋」というキーワードで繋がっている。
そしてこの物語の主要関係者が全員、品川のあるビルへ向かう。
そこで何が起きるかは読んでのお楽しみでしょう。

そもそも押し屋っていう商売、って皆さんどう思われます?
交差点で押して交通事故になる確率は高いでしょうが、事故死する確率は必ずしも高いとは言えないでしょう。
それに必ずしも道路の真ん前に立っているとは限らない。
駅のホームでも真ん前を敢えて避ける人もいるぐらいですし。
もちろん、それを可能にするからこそのプロなのでしょうが、請け負い仕事としてはかなり無理を承知の上の仕事という事なのでしょうか。
大阪の阪急電車に淡路駅という駅があります。
淡路駅周辺はさほどの繁華街でもないのですが、阪急京都線、北千里線、地下鉄堺筋線・・と交差する駅でしかも急行停車駅(当時は今は特急も停車します)、沿線乗り換え乗客と急行・各駅乗り換え数は阪急沿線では十三か淡路と言われるほどに多い駅だったと思います。
私が小学生だった頃の話なのですが、丁度サラリーマンの帰る時間帯でしょうか。
その混雑する淡路駅で私の父親が特急電車の通過直前にホームへ転落しまして、通常ならば、特急電車に引き摺られて見るも無残な死を遂げたのでありましょうが、なんとまぁ運動神経オンチが幸いしたのか、そのまま線路のど真ん中で後頭部を打ってそのまま失神。おかげで、後頭部打撲だけで他は一切無傷、という奇跡的な事がありまして、当時の大阪三面記事の片隅にも載ったほどで御座います。
父親は酒はたしなむ方でしたが、ホームから転落するほどの酩酊をした姿は家族の誰も見た事が無く、小学生ながら何者かに押されたのではないか、とひそかに思っていたのであります。
いずれにしろ押し屋の場合は偶然性を伴うので、プロの殺し屋としては成り立ちにくいとのではないでしょうか。
人から仕事として依頼されて、ではなかなか成り立ちにくいでしょう。
丁度、思い立った時に偶然そういう場所に居て、というならわかりますが、それはプロ仕事とは言えない。
シロウトの衝動でしょう。

それに比べて自殺屋というのはどうなのでしょう。
世の中、代議士の代わりに秘書が自殺したり、などと言う事はまま発生しています。
それだけ考えれば有ってもおかしくは無い。
でもその男を前にした人間が皆、自己嫌悪に陥って自殺願望になるのであれば、その自殺屋が自殺に追いやったのは三十数名どころじゃないでしょう。
電車で出会った人だって、その後飛び込んでるかもしれないし、乗り合わせたタクシーの運転手だって、自ら赤信号の交差点に飛び込んでいるかもわからない。

などと思いつつ読んでいたりしたわけですが、作品そのものを否定しているわけではもちろんありません。
そんな稼業があるわけがないなどと思う反面、数ヶ月前の、またまた数年前のあの事件、やあの事件・・・などといろいろと考え出すとひょっとしたらとそんな仕事人稼業と言うのが実在しているのかもしれない、などと思わせられてしまうのです。

とにかく当時人物の個性の豊かさはいいですね。
「ジャック・クリスピン」という実在するのかどうかわからないシンガーの言葉でしか物事を語れない岩西という男。
押し屋の槿(あさがおと読む)の個性も興味深い。
ぼんくら息子に轢かれて死んだ鈴木の妻の個性も個性もいいですね。彼女の個性が鈴木に行動を起させています。

それでもなんと言っても「鯨」に一番興味をひかれますね。
図太い人間を自殺に追い込むほど相手を絶望させる様な男でありながら「罪と罰」を愛読書として持ち歩き、自殺に追い込んだ人間の亡霊の幻覚に悩まされるという図太さとは逆の繊細な面を持つ。
いやあまり書かないでおきましょう。

「グラスホッパー」というのはバッタの事。
本の中ではの槿が語ります。
バッタが群集すると群集相というバッタになる。
密集して暮らしていくと種類が変わる。黒くなり、飛翔力が高くなり、慌しくなり、凶暴になる。人間も一緒だ、と。

都会の人間は群集相、という事なのでしょう。

グラスホッパー 伊坂幸太郎 (著)



沙高樓綺譚


うーん。うならされてしまいました。

さしづめ料理でいえば、通常は前菜があって、スープがあって、オードブルがあってサラダがあって、デザートでしめくくる、って言うところなのでしょうが、今回の五品、全部オードブル。しかも量は多すぎず、五品を食して丁度腹満杯、といったところでしょうか。

さすが名シェフ!とうならされてしまいました。

最初はなんだか博物館の刀剣の鑑定話から始まってなんのこっちゃ、と思ったのもつかの間。

「沙高樓」という高層ビルの最上階に造られた空中庭園とラウンジという奇妙な場所が登場した途端、お、いよいよ浅田名シェフの登場だな!
とその思いそのままに期待を裏切らないところが名シェフの腕前なのです。

沙高樓とは各界で名をなし功をあげた名士たちの集い。
そこでは一人一人が自らの秘密の打ち明け話をするのですが、語られた事は決して他言することのできないという掟があります。

「お話になられる方は、誇張や飾りを申されますな。お聞きになった方は、夢にも他言なさいますな。あるべきようを語り、巌のように胸に蔵うことが、この会合の掟なのです」
と、沙高樓の主人である女装のマダムがの講釈からそれぞれの一品は始まります。

◆「小鍛冶」
刀剣の鑑定にまつわる話。
足利将軍家より刀剣の鑑定の家元として召し抱えられてから600年34代日本の刀剣鑑定界の首座を維持している徳阿弥家。
その徳阿弥家を継いだ34代目が語ります。

宗家である鎌倉徳阿弥家、その分家である麻布一の橋家、京都西の桐院家、大阪谷町家の四家が年に四度集り、総見という鑑定を行う。
その鑑定で認められた刀剣には「折紙」というものがつき、「折紙つきの何がし・・」という言葉もこの家のしきたりが発端なのだと言う。

その四家の名鑑定をして、これぞまさしくと「折紙」をつけるに相応しい刀剣がこの現代に作られていた・・・。

江戸時代の書家で工芸家でもあり画家でもあった総合芸術家とも言われた本阿弥光悦の本阿弥家も元はと言えば足利将軍家の刀剣鑑定の家だった。
モデルはそこだったのかもしれません。

◆「糸電話」
精神科医の先生が登場。
上流階級の子弟だけが入学する小学校。
サラリーマンの初任給ほどの月謝を
とはいえ没落していく家も当然ながら存在し、没落した家の子は公立へ転校して行く。
仲の良かった同級生の女の子もその一人だった。
人生、偶然の再会というものはままあるものなのですが、逆に言えばそうそうあるものでもありません。
ですがその女の子とはその後、何度も何度も偶然の再会をしてしまう・・という奇妙なお話です。

◆「立花新兵衛只今罷越候」(罷越候:まかりこしそうろう)
浅田シェフの最もお得意の素材の料理といったところでしょうか。
新撰組が名をあげた池田屋事件。
京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて孝明天皇を長州へ連れ去ろうと言ういわゆる尊皇攘夷派のクーデターを実行直前に新撰組が嗅ぎつけ、それを単独で阻止したのがこの事件。
それを戦後間もない時期に映画化しようというそのカメラマンが語り手。
池田屋のセットは実物そっくりに作り上げられ、天井板一枚すらおろそかにしない完璧なセット。
そこへ現れるのが肥前大村藩士、立花新兵衛と名乗るエキストラにしてはやけに時代がかった男。
この話はこれ以上ここで語ってはいけませんね。
読む楽しみが無くなるというものです。

◆「百年の庭」
明治の元勲の一人が作らせたという軽井沢の紫香山荘という世界一美しい庭園。
その庭園を親の代から庭師として世話をする老女。
庭園のオーナーは世代代わりをするが、彼女は生涯を庭園とともに過ごす。
その現オーナーがガーデニングの女王と呼ばれる女性。
この話、ちょっと怖いです。

◆「雨の夜の刺客」
三千人の子分を抱える大親分。
その大親分も元はと言えば集団就職で上京して来た口。
それからヤクザの三ン下になってからのある事件の真相を語ります。
その事件に触れると読む楽しみが無くなるというものです。
とにかく序列の厳しい世界。
常盆の時に三ン下は外での見張り役。その上は下足番。で、その上は中番という接待役。さらに上が客の接待をする助出方(じょでかた)、さらにディーラー役の中盆、そして堵場を仕切るのが代貸・・・。
そんな語りといい、コルト・ガバメントはヒットマンには向いていても親分のボディーガードには小口径のリボルバーが向いている・・・。
などと言う超専門的な語りは、やはりこの料理素材も浅田シェフのお得意素材の一つだからなのでしょうか。

いくら沙高樓のマダムが「夢にも他言なさいますな」「それが掟なのです」と念を押したってこれだけの話を聞いてしまってそれを黙っていろ、というのは酷な気がします。

また、「糸電話」の様に打ち明け話的な要素のあるものや、「立花新兵衛只今罷越候」みたいな聞く人はどう受け取っても構わないが・・という様な話であれば話し手も語ってしまうかもしれませんが、「小鍛冶」といい「雨の夜の刺客」といい、絶対に語られる事などはありえないだろう。おそらく語り手は本来なら墓場まで本人の胸の内に秘めたままにしておくのだろうな、という様な話もあります。

浅田シェフのお得意の分野だろうと思われる素材もあれば、おそらく初めて手がけたのではないかと思われる素材もあります。

刀剣などはどれだけご勉強されたのでしょうね。

庭園についてだってそうです。
それにどれもこれも一つ一つの言葉に重みがあるのです。
到底、少々学んだ、人から話を聞いた、というレベルではないように思えます。
そこには浅田シェフの思いが乗っかっているのです。

一体このシェフ、いくつ引き出しを持っているのでしょうね。

沙高樓綺譚 (さこうろうきだん) 浅田次郎 著