月別アーカイブ: 4月 2009



大久保町の決闘


大久保町というから新宿の大久保だろうと思っていたら、あの明石の大久保だったんですね。

完璧にコメディです。

映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の中で、主人公が過去の西部劇時代へ飛んで行く話があったが、あれを日本のしかも兵庫県の大久保を舞台にして、徹底的にコメディにしたような話、と書けばわかりやすいでしょうか。

実在する地名なんですよ。
地元の人にはどうなんでしょうね。

JRの大久保、魚住、二見あたりって結構工場なんかも有ったような気もしますが・・。
いきなり酒場とガンマンの町になっていて、保安官事務所だのがあるかと思えば、何故か国連病院があったりする。

この国連病院の看護婦が滅法乱暴で強い。
ならず者退治にこの看護婦を使えばいいのにって、んなことはどうでもいいっか。

まぁ、難しい本を読むのに疲れたお方などの生き抜きに丁度いいご本ではないでしょうか。

大久保町の決闘 田中 哲弥 著(ハヤカワ文庫)



小林多喜二 21世紀にどう読むか

永らく歴史の中で埋もれていた小林多喜二という存在。
2008年に『蟹工船』が脚光を浴び、再び世にその姿を表す。
ではその生き様とはどんなものだったのか。

ノーマ・フィールドという人、母親が日本人で日本にての在住期間もあり、専攻が日本文化だとは言え、日本語で物を書くよりも英語で物を書くことの方が多いだろうに、なんとも日本の物書きよりもはりかに達者である。

小林多喜二についても丹念に資料を調査し、取材をし、綿密に分析をしている。

昨年あたりに『蟹工船』がブームとなったのは、非正規雇用社員として、ワーキングプアと呼ばれる人達の共感を得たため、と言われる。

メディアもこぞって、派遣業界を非難し、非正規雇用社員を放置した政治を非難した。

ところが今年に入ってどうだろう。非正規雇用のみならず正規雇用社員にしたって、自宅待機などという会社がわんさか出て来ており、もはやどこが潰れてもおかしくないような状態にてはそこの正規雇用社員だといったところで不安定度合いで言えば非正規と何ら変らない。

一部メディアや一部の政党がは、『蟹工船』の時代の無産労働者と、現代の若者を同列視するように喧伝し、小林多喜二関連の記事も軒並みそういう論調だったが、ノーマ・フィールド氏はそういう怪しきブームがあることなども踏まえて執筆したのだろうが、さような安易な結びつけを一切していないところが、冷静で、好感が持てる。

農地解放前の時代の地主VS小作人と現代の正社員VS非正規社員、現代の経営者VS従業員、それらの関係を同列に扱えるだろうか。明治・大正・昭和の戦前までの時代までは、当時の棒給の格差たるや今日の比では到底ない。
役人と無産労働者の棒給の比、経営者と労働者の棒給の比、それこそ何百倍、何千倍の世界である。

現在の日本においてはほんの一部(ITベンチャーと名乗る連中)を除いて、ほとんどそのようなことはないだろう。
せいぜい何倍レベル。桁違いまでいかないのではないだろうか。

『蟹工船』という本、世界中に翻訳されたらしいのだが、今の時代にその状態に一番近いのは少し前の、いや今もか?世界の工場の地位を欲しいままとするお隣、中国かもしれない。
彼の国の工場での劣悪な労働環境については、あの非正規労働者の味方の様な石田衣良の池袋ウエストゲートパークでも『死に至る玩具』として書かれている。無論、他にも多く書かれているが。
最低賃金法はなんとか出来たと聞くが、日当が百何円、残業してもプラス数十円の労働者が居ると思えば方や、数百万の自動車を安い安いと、いとも容易く購入する層もいる。
その労働者が今年の春節で里帰りをするあたりから、もう工場へ帰って来なくていいよ、と職を失い、路頭に迷う。
アメリカの自動車業界でいくら人員削減したところで組合からの失業手当で充分に生活できるレベルとは世界が違う。

それはさておき、小林多喜二という人、貧困層に目を向け、最後は獄中拷問死という暗いイメージが先ず浮かんでしまうが、この本を読む限り、かなり明るい人だったようだ。
イデオロギーなどはどこかへ置いておいて、再度『蟹工船』を読みたくなってしまった。

小林多喜二 21世紀にどう読むか ノーマ フィールド Norma Field 著(岩波新書)



造花の蜜


なかなか期待させる出だし、予想を裏切る展開。
誘拐・身代金奪取ということを試みながらも結局一銭も奪い取らず、・・どころか奪い取れるはずのお金を返上しながらの人質解放。
犯人には別の目的があったのか・・・・・と本来ならば、ぐいぐい読まされるはずの展開。

非常に発想の面白い作品なのだが、何ともリアリティが無いという印象が残ってしまうのである。
小説なんてそんなもの、と言ってしまえばそれまでなのだが・・・。
もっとリアリティの無い世界を舞台に描いている作家でさえ、バックボーンにリアリティが無い分、ディテールにおいてのリアリティさにかけては細心の注意を払っているはずである。

細かいことを言い出せば、被害者宅へ来た刑事が「ご主人が金持ちだという事を云々」
「金持ち」って・・・そんな表現。
ちょっとした言葉遣いだけでも、それまで積み上げて来た、エリート刑事のキャラクターを台無しにしてしまいかねない。

それにしても日本の警察もずいぶんとなめられただ。
いくら昔に比べて未解決事件が多くなったとはいえ・・・。

渋谷のど真ん中でいくら人通りが多いからと言って、犯人が指定した場所へ車を乗り付けての人質解放。
それで、共犯も誰一人逮捕者が出来ない?
周囲一体、私服の警官が取り巻いているというのに。
遠隔地から指定場所への監視体制も整っているのに。

その前にも指定の交差点に目印の赤いペンキのようなもの。結局血だっただが、それをどうどうと撒き散らかした車も追跡出来ない?
そこまでひどい?

ミステリーものというのは謎になった部分について最後には全て、あーそうだったの、という納得させる答えを読者に提供するものとだと思っていたが、いくつもの「?」はそのまま放置されたままである。

人質の母香奈子と刑事が渋谷で共に見た、目つきの鋭いいかにも人相の悪い犯人っぽい男。
それって結局何者だったの?
何故、刑事にあれが犯人なんですか?と聞かれて「犯人です」って香奈子は答えたのは何故なんだ?
渋谷の交差点に撒かれた血は結局なんだったの?。
などなど・・。
あえてグレーにする部分とグレーを明らかにすべきところについて、少し極め細やかさに欠けていやしないか。

刑事が質問している事に「そんなことどうでもいいじゃないですか」などという香奈子の口調ってどうなんだ。
一般人がいくら誘拐事件の最中だからと言って刑事という人種を前にしてそんな言葉を吐けるか?

相手が刑事だから、だけでなく、誘拐された被害者宅は刑事を呼んで来てもらっている。助けを請うている。そういう立場である。
彼女は偉そうな言葉を吐ける立場にはいない。

納税者の立場から言わせてもらうなら、この女性は国民の血税を使って、誘拐された子供の救出に来てもらっているのである。
この被害者側の態度は許しがたい。

後にもっと許しがたい存在である事があきらかになるのだが、その前に反感を持たれてどうする。

共犯者でもあり被害者でもある青年の話のくだりなど、なかなかに面白い筋立てだろう。

それでもいくらなんでも最後の事件のくだりは、もうほとんどアルセーヌ・ルパンじゃないか。
平成日本に現れた女アルセーヌ・ルパンといったところか。

物語の要所要所に必ず蜂が登場する。
蜂が所謂キーワードなのだろうか。蜂という存在に何かを暗示させているのだろうか。

そんな一見極め細かいようなつくりに見えながら、実はかなり荒っぽい作品なのである。

閑話休題。
蜂と言えばこの本が出版された2008年、日本から大量に蜜蜂が減少した。農家は授粉作業を蜜蜂に頼って来ただけに、今後が大変なのだとか。
閑話休題終わり。

この本、新聞の書評欄でのベタ褒め記事を読んで読む気になったのだが、その書評といい、ずっしりとしたこの本の重量感といい、いかにも面白い本ですぞ、と言わんばかりの装丁といい、読む前にかなり大きな期待を持ちすぎてしまったのがいけなかったのだろう。宮部みゆきばりの事件的描写を期待してしまった。

少々辛辣な感想になってしまった。

この辛辣さは、あくまでもそういう過度な期待度が事前にあった上で読んだためのものであって、予備知識なしに読み始めれば、間違いなく面白い作品の範疇に入るのではないだろうか。

「造花の蜜」 そうまさに造花なのだ。本物の胡蝶蘭では無く、あくまで造花の蜜。
なかなかにして相応しいタイトルではないだろうか。

造花の蜜 連城三紀彦 著(角川春樹事務所)