月別アーカイブ: 10月 2011



忘れられない脳


サブタイトルは「記憶の檻に閉じ込められた私」
著者の欄に「バート デービス」という名前もあるので共著なのだろうか。

子供の頃からの記憶がほぼ完ぺきに残っているというのはどんな状態なんだろう。
この本の自伝を書いたジルという女性は2~3才の時の記憶も有り、本格的に記憶が残り始めたのは8才から。
14才以降になってからというものほぼ100%の記憶が頭に残っている。
頭の中には30年以上のDVDが録画をし続けながら、再生をし続けている状態か。

いや「記憶がある」とうだけなら時に困らないだろうが、常に子どもの時からの記憶がアトランダムにつなぎ合わされて頭の中を駆け巡っている状態というのは、どう考えてもまともな暮らしが営めるとは思えない。

筆者のジルという女性の頭の中には全てのシチュエーションが頭の中に残っている。

かつて映画「レインマン」でダスティン・ホフマンが、一度読んだもの、一度見たものを丸暗記してしまうサヴァン症候群の自閉症の男を演じていたが、そういう丸暗記とはまた違うのだ。
彼女は九九さえまともに暗記出来なかったと書いている。

自分で見た、自分で感じたものをその感じたままに記憶している。
子供の頃、恐いと感じたものはそのまま恐いと感じたままに記憶が再生される。

何か子供の頃にショッキングな出来事があるとそれがトラウマになるとか、よく言われるが、彼女の場合は全ての出来事がトラウマ?
精神的な外傷ではないが、記憶への残り方はトラウマみたいなものとといってもいいのかもしれない。

楽しい記憶だけが残っているならいいが、ちょっとした不注意な発言で人を傷つけたり、傷つけられたり、辛いこと、悲しいこと、いやなこと、怖い経験、全てが頭に残ってしまっては溜まらないだろう。

ちょっとした嫌な出来事を一日、二日で忘れられるというのは人間の生きて行く上での自衛本能ではないだろうか。

少し前の事だが、長年会っていなかった高校時代のサッカー部の同期の連中と同期会で集まる機会があった。
話題の中心はやはり高校時代のサッカーの試合の話。

その時に人の記憶というものがいかにあやふやなものであるか、ということを痛感した。
高校の最後の公式戦でPK負けを喫してしまい、その試合を最後に引退となったわけだが、最後のPKのシーンは蹴った本人はまさか忘れていないだろうと思っていたら、あろうことか、はずした二人だけ、まさに二人共、全くその試合そのものを記憶していなかった。

あの南アのワールドカップだって本田の活躍より駒野のPKの方が頭に残ってしまっているというのに。

逆に全員が覚えていると言い張ったのが、自分自身が決めた高校時代の初のゴールシーン。
これは先ほどと逆で、本人だけしか憶えていない。

みんなちゃんと自分のいいシーンだけはキッチリと憶えていて、嫌なシーンは頭から消し去ってしまっている。
良く言えば前向き思考の連中ばかりなのかもしれない。

全員が記憶のパズルの断片を持っていて、皆の断片をつなぎ合わせてみるとパズルが仕上がっていくみたいな楽しい時間だった。

人は案外頭のどこかには全てを記憶をしているのかもしれない。
単に繋がらないから出て来ないだけで。
何かきっかけさえあれば、そんなこともあったっけ、と脳の中で切り離されたものが引き出される。
もしくは閉じ込めておいた封印が解かれるのかもしれない。

それにしても彼女はこの膨大な記憶と結構うまく付き合って来ているのではないだろうか。
確かに情緒不安低な時期もうつになりかけた時もあっただろうが、周囲の人の心がけもあってか、健全に40代を迎えているように思える。

大抵の人間なら情緒不安低どころか、気が狂ってしまうのではないだろうか。
彼女が意を決して出会うことにした脳科学者は世界でも初めての症例だと言うが、実際には世界中で一人だけだったのだろうか。
脳科学者の前に存在しなかったのは、そんな症例の人が他に居たとしても、とうの昔に頭がおかしくなってしまうか、自分の嫌な記憶に苛まれて自殺してしまっていたからかもしれない。

ともあれ、世界にはそんな超記憶症候群の人が存在する。

こちらは昔の記憶どころか、昨日の記憶でさえ、いや数時間前の記憶だってあやふやなことしばしばなのに。

それを人は健忘症と言うのかもしれないが、自分では寧ろ頭がそっちを向いていなかっただけ、頭に入れることすらしなかった事柄だと思うことにしている。
もしくは上の空状態か。

「いやぁやはりそれは健忘症でしょう」

そっ、そうなのか?自分では自分の得意技だと思っているのだが・・・。

忘れられない脳  記憶の檻に閉じ込められた私 ジル・プライス(著) バート・デービス(著) 橋本碩也 (訳)



大盛りワックス虫ボトル


同じ小学校に、しかもたったの3クラスしかない同じ小学校に6年間も通っていたというのに、中学へ入るやいなや、「えぇ!同じ小学校だったっけ」と言われる少年。
どれだけ存在感無いんだ。
名前を忘れられることなら、まだまだ普通だが、もはや存在そのものが記憶から消されてしまっている。

小さな頃からそうだった。
かくれんぼをしていたら、かくれているうちに存在を忘れられてみんなが家に帰ってしまっていたり、小学校の催し物を行った時も一人だけ遅れて参加出来なかったのに、参加していないことにも誰からも気が付かれなかった。

「透明人間」を取り上げた本や映画というのは昔からいくつもある。
その中では透明人間って不便だったり、透明だからこそなのか、返って目立ってしまっていたりする。

真の透明人間というのはこの主人公:虫ボトル君のことではないのか。
見えていてもその存在そのものがあまりにも希薄すぎて、結局居ることに誰も気が付かない。
昔の日本の忍者にはそういう技術があったという。

存在感を消すという技術は、透明人間を作りあげるような科学技術は不要だが、効果としてははるかに有用なものなのだろう。

しかし、それはあくまでも存在を消したい人にとってであって、自分はここに居るんだ!と存在を認めてもらいたい少年にはたまらないことだろう。

自宅に戻った彼はペットボトルに向かって秋葉原連続殺傷事件じゃあるまいに「こうなったら手あたり次第に1000人ぶっ殺ししてやる!」と叫ぶところからこの話が始まる。

その1000という数字がこういう具合に返って来るとは。
ペットボトルの底に現れた、糸くずみたいな手足の虫が彼に命令する。
次の誕生日までに人を1000回笑わせろと。
なんともたわいのない話ではあるのだが、とにかくそういう設定なのだ。

相棒を探して文化祭でコントをやってみよう・・と決心をしてからは彼の中で何かがはじけたのではないだろうか。

以外にもお笑い芸人には昔ネクラだったとか、静かで目立たない人だった、みたいな人が多いと聞いたこともある。

案外、こういう人が将来芸人になってしまっているのかもしれない。

いや、芸人になるかどうかはどうでも良くて、彼ともう二人の相棒の彼らが味わった達成感はそれから先の彼らにとって大きな財産となって行くのだろう。

大盛りワックス虫ボトル 魚住直子著 YA!ENTERTAINMENT