月別アーカイブ: 3月 2012



ザ・ラストバンカー


元三井住友銀行頭取にして、前日本郵政の社長、西川氏直筆の回顧録。

西川氏で思いだすのは何と言ってもあの日本郵政社長の座を追われる時のあの苦虫を噛み潰したような表情だろうか。

この本にも郵政の事は終盤に出て来るが、大半はバンカー時代の話に誌面は割かれている。
さながらバンカーの視点から見た日本の戦後経済史、と言ったところだろうか。

いざなぎ景気からオイルショック、バブル、そしてバブル崩壊、銀行の不良債権問題の多発から金融ビッグバンまでと凄まじいばかりの上り下りの時代をバンカーのど真ん中に居て体験しているのだ。

もちろん、墓場まで持って行かなければならない話など山ほどあるのだろうから、ここでふれられていることなど、氏の体験の中のほんの一掴みほどかもしれない。

ことにバブルなどというトンデモない時代を作り上げるのに大銀行が果たした役割はかなりのウェイトだろう。

わずかな元手を担保に金を貸し付けて、ビルを買わせ、そのビルを担保にさらにビルを買い増して行く。
濡れてに粟のバブル紳士を次から次へと産み出したのは銀行だろう。

もちろん、その中での氏の役割がどうだったのかは知る由もないが・・。

少し前に「バブルへGO」という映画が有った。
広末涼子と薬師丸ひろ子の母娘がバブル時代へタイムスリップして、バブル崩壊の引き金となった総量規制をSTOPさせようとする映画だ。

あの映画からすれば、総量規制をSTOPさせれば、その後の日本経済はまだまだ上昇気流のままだった、ということなのだが果たしてそうだろうか。

確かに総量規制は一気にバブルを崩壊させたが、あのままでいいわけがない。
寧ろ、バブルが始まる前にタイムスリップして総量規制を導入させるべく動く方がはるかにマシだろう。
すでにあぶくでパンパンになってしまってから、どれだけ緩やかな政策をとったって所詮あぶくはあぶく。
銀行の不良債権が消えるわけでもなんでもないだろうに。

昨年末頃だったか、中国のバブル崩壊を声高に叫んでいる論調に出くわしたことがある。
彼の国では土地やマンションが高騰したかもしれない。確かにそれが下落することもあるだろう。
それは日本のバブル崩壊と同じだろうか。日本の場合は全く無から有を作り上げるほどに無茶苦茶な貸付があった。
彼の国は日本のいいところも悪いところも充分に勉強済みだろう。
日本の下落とはやはり違うのではないだろうか。

氏が表舞台に出て来るのは、そんなあぶくが弾けた後の金融再編時代。

一体、どれだけの銀行が合併したのだろう。
銀行の系図でもなければ、もはや元々が何銀行だったのかもわからない。

富士、日本興業、第一勧銀が一緒になってみずほに。
三菱と東京がひっついてさらに三和と東海が引っ付いたUFJと合併して三菱東京UFJへ。
そんなどでかい合併だけじゃない。
中小どころもあっちとこっちがくっついてって全くわけがわからない。

唯一、大手の中で孤高のように合併をせずに来た住友信託もこの春にとうとう中央三井と合併する。
これでローカル銀行以外の主要銀行はすべて合併したのではないだろうか。

そんなダイナミックな合併の一つ。
三井と太陽神戸がくっついてさくらに、さらに住友と合併して三井住友へ。
その渦中に居た人が回顧録を書いているのだ。

こういう本のことだ。
自分に都合の良いことばかりを書いているだろう、という批判はもちろんあるだろう。
だが、敢えて自分に都合の悪い話ばかりを書く必要などどこにあるだろうか。
ハナから差し引くところは差し引いて読むぐらいのつもりで読めばいいだけのこと。
経済記者が書いたわけじゃないんだから。

そんなダイナミックな世界の中枢に居た人の肉声がから拾えるものを拾えば充分だろう。

終盤の話は何と言っても郵政民営化後の氏の役割。

民営化後の社を引っ張って欲しい、と三顧の礼で迎えられ、郵政という組織のあまりの官僚ぶりに呆れつつも、大ナタを振るって、民間企業たろうとする。
そのまだ道半ばでありながらも同じ郵政解散で大勝ちした政党の幹部から梯子をはずされたような格好だ。

パフォーマンス好きの政治家にいいように振り回される。
時の総務大臣、鳩山邦夫氏は再開発中の東京中央郵便局へテレビカメラを引き連れて、「こんなことをしたのは誰だ」と大真面目にパフォーマンス。

かんぽの宿を安売りした、と報道ナントカのキャスターまでもがさんざんわめいていたっけ。

氏が行い、また継続させようとしたことは、まさに今、橋本大阪市長が行おうとしていることと同じだろうに。

ついには政権交代で脱官僚の謳い文句の政権が元大蔵事務次官の官僚を氏の後に据える。
財政投融資の受け皿へと逆行し、民営化が後退する様を見て、どれほど氏は歯がみしたことだろう。

橋本改革が同じ憂き目を見ないことを祈るばかりだ。

ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録 西川善文著



鬼畜の家


元刑事の探偵が、ある一家にかつて関係したことのある人を一軒訪ねては、その頃の様子を取材する。

ずーっとその描写を行って行く。
ある一家というのは父親は町医者、その妻は元準看護師でその医院に勤めていた人。
子供は三人、長男の下に妹二人。

その町医者が亡くなったことを取材するところから物語は始まる。
父親亡き後、叔母の元へ母と子供三人は厄介となり、一番下の妹はその家へそのまま養子として引き取ってもらう。

次いで起きたのが、その家の火事で叔母夫婦は焼け死に、妹だけが生き残る。

次いで起きたのが引っ越したばかりのマンションで起きた長女の転落死。

どれもこれも人が死ぬ度にその元準看護師の妻は大金を手にして行く。

父親の死では保険金を、叔母夫婦の焼死ではその養女となった娘が遺産を継ぐ格好でまたまた大金を手にし、長女の死ではマンションのベランダの手すりのボルトに過失があったものとして、家主を責め立て、これまた大金の慰謝料を手にする。

どう考えても、計画的な犯行だろう、と物語は進んで行くのだが、この刑事が下の妹と出会うシーンあたりから、物語は新展開を徐々に見せ始める。

この巻末に第三回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞の選評というのが載っている。
そこには団塊の世代のたくましさや能力を活かさない手はない、旨の記述がある。
なるほど、この作者は60才で仕事をリタイヤした後に執筆活動を開始したとある。
確かにおそるべし団塊の世代だ。

夫が借金まみれで取り立てたい債権者が山ほどいるだろうに、まんまと保険金を手にする手口。
養女としての縁組の後の遺産相続の手口。

これは作者略歴にある永年の弁護士としてのキャリアならではだろうか。

この本、後半以降のどんでん返しは、かなり現実的ではないが、前段はかなりリアリティが感じられる。

現在、公判中の練炭殺人と呼ばれる事件にしたって、一旦自殺で片付いたものがほじくり返されることなど、あれだけ繰り返し、繰り返し、同様の手口を使わない限り、なかっただろうし、一件、二件で終えていたら事件にすらならなかっただろう。
そういう意味では、病死、事故死で片づけられているもののなかにはかなりの数の事件性をおびたものが含まれている可能性だって出て来る。

前段の「鬼畜」、何やらこの世に実在していそうな話だけに妙に薄気味が悪い。

鬼畜の家 深木章子著 三回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞受賞作



虚空の冠


戦後まもない頃の日本。
新聞はGHQの検閲無しには出版出来ない。

それでもダメモトでも真実を伝えようとする気持ちは失ってはならない。
そんな先輩の教えを受けるまだ駆け出しの主人公記者。

緋色島という三宅島や八丈島の方面の島と思われる島で火災が起こったとの報を受けて、船に先輩記者と船に乗り込んで、その取材に行く。
通信手段は伝書鳩。

そこでその船はアメリカ海軍の軍艦に衝突してしまう。
その軍艦は救助を行おうとはせず、乗船していた50名の乗客は海の藻屑と・・。

その中で唯一生き延びたのがこの主人公。
衝突したのと同じアメリカの軍艦に助けられる。

帰国した後に、なんとかその衝突事故を無かったことにしたいアメリカの意向を汲んだ、会社の上層部、政府関係者に説得されるが、50名の命を無かったことにするのか、という正義感からなかなかその説得に首を縦に振らない。

それがそもそもの始まり。
結局、報道しようにも検閲があっては伝えられない。
GHQの主な役割りも終わり、下手な動きをすれば報道の自由はもう目前に来ているのがご破算になりかねない。

結局、上の意見に従うわけだが、それからがこの主人公記者の活躍が始まる。
政治部記者のエースとして名を上げて行く。

そして、やがてメディアの頂点へと上り詰めて行く物語なのだ。

この記者氏、あのナベツネ氏がモデルか?と瞬時思わう瞬間もあったが、そんな特定の人ではなく複数の人物をモデルとして、作り上げた架空の人物といった方が正しいのだろう。

エンディングを書いてしまうわけにはいかないが、著者はこのやり手経営者の手法に批判的なように読めなくもないのだが、果たしてそれは批判されるべきものだっただろうか。生きるか死ぬかの戦い。敵も業界そのものを潰したってなんとも思わない連中だ。

唯一批判されるべき箇所があるとするなら、冒頭の衝突事故。
ジャーナリズムに身を置く人間としてやってはならないことをやっている。
ご時世柄、「報道しない」までは止むを得ないだろう。
生き残りの一人ではあるが、ひたすら沈黙を守れば良いものをあろうことか「機雷にぶつかって撃沈した」などとの虚偽を語ってしまっては、もはやジャーナリストでは大失格だろう。
だから、二度とその話題にはふれない。
そう、本人が二度と真実を語れないように、語ったが最後、自らの記者人生を終えることになることを見越して虚偽の事を語るように上の連中は指図したのだろう。
あそこで沈黙を守る、という選択肢を告げ、念書をしたためればそれはそれで上は充分納得しただろうし、その後の展開を見てわかる通りあそこまでのやり手である。
いずれは頭角を表していただろうに・・。
批難されるべきはその一点のみではないだろうか。

戦後まもなくの時代からラジオ、テレビ、インターネットと情報伝達の手段は様変わりし、行き着いたのが携帯電話会社が打ちだそうとする、電子書籍端末。

それが一旦プラットフォームとなってしまえば、その会社は通信会社としての地盤はもちろんゆるぎないものとなり、いすれは衰退していく出版、コンテンツの世界も一気に飲みこもうとする。

その会社との攻防が後半のクライマックスの見どころである。

それにしても著者そのものが執筆したものも紙媒体で雑誌に出、その後は書店に並ぶというスタイルだけに電子書籍の問題点なども良く承知しているものと思われる。

著作業という職業、新聞や雑誌の連載を書いている間は月給をもらう人に近く、単行本となった後に入って来る印税はボーナスみたいなものなのだとか。
やはりどこかで安定収入を確保して・・。ということなのだろう。

一旦、電子書籍に全面移行となれば、今の出版社のように初版を何万部とするか、という選挙の票読みのようなことをする必要が無い。
返本という制度も無くなる。
印刷所も要らなければ、流通も不要、在庫も要らない。
読者にしたって本だなから本が溢れる心配をしなくて済む。

だが、作者の立場から言えば、ダウンロード件数というずばりそれだけが収入の糧となるわり、これまでの安定収入というものはもはや無くなる。

だからと言って楡氏は電子化に反対の書き方をしているわけでもなんでもない。

どちらかと言えば、いずれはそうなるんだ、という書き方だろう。

とは言うもののこの「虚空の冠(上・下)」卷は小説新潮の2009年6月号から2011年5月号までというかなりの長期期間の連載を経て、2011年に単行本化されている。

書きおろしならまず切り捨てていただろう、連載物ならではの繰り返しが少々目につく。
司馬遼太郎本などでもよくあったことなのだが、あれは繰り返し繰り返し読ませられることによって、歴史や時代背景の復習に役立つ、という味わいのあるものだった。

この本は一気に読み進められる本だけに、電子書籍のメリットデメリットを語るシーンなど、何度も同じ事が何度も語られている箇所が、余計に目についてしまった。

楡氏も安定収入期間を長く保ちたかったのだろうか。


虚空の冠 (上・下巻) 楡 周平 著 新潮社